台湾金門島旅行記【前編】沖縄と似すぎている台湾の島
- 2023/1/5
- 国際
台湾の金門島をご存じでしょうか?「台湾の」と書きましたが、島の位置としては「え?なんでここが台湾なの?中国じゃないの?」と思うぐらい中国に近いです。いや、むしろ、完全に中国の湾の中にあるので「逆になんでこの島は中国じゃないのか」と思うぐらいです。
12月29日から1月1日にかけて、沖縄と金門島を初めてチャーター便で直接結んだツアーに参加してきました。“参加”と言うのもおこがましいのですが、観光に力を入れたい金門県政府が、我々メディア関係者をツアーに招待してくれたというのが、僕が金門島で2022-2023の年越しを迎えることになったそもそもの発端でした。
実は金門島は2回目。15年近く前ですが、よくいるようなバックパッカーとして髪もヒゲも伸ばしながら(当時はそれがカッコいいと思っていた)、世界中あちこち回っていた時に中国にいて、ノービザでの滞在期限2週間が切れそうになりまして「だったら一瞬台湾に出て中国に入り直して、2週間再チャージしよう」と立ち寄った島が金門島だったのでした。でも、その時は3時間しかいなかったので、実質初めてです。
今回のツアーは金門県政府や沖縄県、台湾の旅行会社が一緒になって組んだものなので、地元のみなさんがオススメする「これが金門観光だ!」という内容の場所を巡れたのだろうと思います。
そのような中で、金門観光を大きくいくつかのキーワードで分けると、以下の3つになると思います。
・国共内戦の最前線としての歴史
・特産の蒸留酒「高粱酒(こうりゃんしゅ/ガオリャンジョウ)」
・沖縄のシーサーのような「風獅爺(フェンシーイェ)」
とにかく、金門と沖縄はやたらと共通点があり、むしろ親近感さえ感じてしまうほどです。離島県でアイデンティティーも独自であること、戦地としての歴史があること、泡盛と高粱酒のように特産の酒があること、シーサーと風獅爺のように守り神的存在がいることなどなど。
今回は、ツアーに参加する中で感じた、沖縄と金門の共通点や、金門の魅力に触れていきたいと思います。将来的に沖縄と金門を結ぶ定期便が就航したら、お互いの人的交流やビジネス連携が生まれる可能性にも期待したいところです!
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宮古:伊良部=大金門:小金門
金門島の人口は、登録上は約14万人で、実質は約6万人。住民票みたいなものを金門に置いたまま、対岸の中国・厦門市などに出ている人もいるのだとか。人口規模や土地のサイズ感としては、宮古島を想像してもらえるとちょうど同じぐらいだとのこと。
しかもさらに宮古島に似ていることがあります。それは「離島の離島があって、それがさらに橋でつながっている」ということ。宮古島は同じ宮古島市の伊良部島があって、それが伊良部大橋でつながっていますよね。金門島には、同じ金門県に大金門島と小金門島があって、それが金門大橋でつながっています。「宮古:伊良部=大金門:小金門」のサイズ比率も似ています。
違うのは、金門島自体に金門県としての中心機能があるということ。なので、地図で見るととっても小さいですが、実は意外と栄えています。那覇まではいかないですが、コザぐらいは栄えています。
あともう一つ特筆すべきことがあります。それは、金門県が中華民国、いわゆる台湾の実効支配地域でありながら「福建省」ということです。今までずっと、中国が「台湾省」と呼んでいる地域が「中華民国であり台湾だ」と思っていたのですが、中華民国の中にも「中華民国福建省金門県」という位置づけがあるのには驚かされました。
ドラの音と獅子舞がお出迎え
12月29日午後。沖縄から2時間ほどで金門空港に着きました。
そして、緯度としては金門の方が沖縄より赤道に近いはずなのに、ちょっと寒いんですよね。大陸からの風とか海流とか、いろいろあるんでしょう。
空港の外では、カーン、カーンと、那覇ハーリーとかで聞き慣れたドラの音が鳴り響いています。かわいらしくも派手派手な獅子舞が舞っていました。沖縄から初めてのチャーター便ということで、手厚く歓迎して頂きました。
軍事の島・金門島の歴史と今
ここからは、時系列ではなくテーマ別にあれこれと書いていきたいと思います。
まずは中台の軍事的緊張について。日本ではよく「台湾有事」と表現されます。
金門島では「金門砲戦」、通称「八二三砲戦」といって、1958年8月23日から10月5日にかけて、共産党軍が国民党軍の軍事拠点である金門島に対して行った砲撃から起きた戦闘があります。蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党の内戦(国共内戦)で、国民党が大陸から台湾に追われる形で撤退し、これが現在の中台問題にもつながってくるわけですが、そうした中で起きた戦闘です。
国民党も応戦して、最終的には国民党軍が金門島を防衛したのですが、この44日間で金門島には約50万発の砲弾が撃ち込まれました。その後も約20年に渡って断続的に砲撃は続き、中には爆発するものではなく、筒の中に共産党のプロパガンダビラが入った宣伝用砲弾も多くあったといいます。同様に、金門島側からも国民党のプロパガンダ宣伝用砲弾も中国大陸側に打ち込まれたといいます。
金門島に降り注いだこの大量の砲弾が、結果として独特の産業を生みました。それが包丁作りです。砲弾に使われる鋼鉄を溶かして材料にすることで、通常の鉄よりも固く強度の高い刃物を作ることができます。
ツアーでは、包丁作りの現場を見ることができました。「金合利鋼刀」の3代目・呉増棟さんが、熱を帯びて真っ赤になった鉄の延べ棒を機械や手道具で叩いたり削ったりすること15分ぐらいでしょうか。立派な包丁が完成しました。1937年に呉さんのおじいさんが創業したこのお店は、最初はいわゆる普通の包丁を作っていましたが、砲撃の音と一緒に幼少期から青年期を過ごした呉さんが砲弾を材料にした包丁作りを始めたそう。
これもまた、沖縄の歴史と重なる部分があります。
沖縄の人々が戦後に米軍のパラシュート生地で服を作り、タイヤ片で島ぞうりを作り、コーラ瓶の欠片から琉球ガラスを作り、ということを考えると、数奇な運命を辿っているというか、戦争の爪痕からでもしたたかに生き抜く人々の強さを感じます。
金門島では1956年から1992年までは一般観光客の出入りは制限されており、まさしく軍事の島だったようです。今回のツアーでも、地雷原だった場所にある「地雷主題館」や、金門から大陸を狙う砲台があった「獅山砲弾地」など、さまざまな施設を見て回りました。
このような歴史から、金門島のアイコンとして、軍事的なものがよく散見されます。ファミリーマートにミサイルのオブジェがあった時はびっくりしましたが、今ではそれも一周回って“金門島らしさ” を演出している要素になっているようです。
当然、今では共産党VS国民党という構図は影を潜めており、イデオロギーを理由とした軍事対立は過去のものになっていると言えます。包丁職人の呉さんは、生まれも育ちも金門島出身。砲撃の無い現在「平和な時代を過ごせるのはとても幸せです」と話しつつ「金門の人々も中国の人々も同じ漢民族です。仲良くやっていきたい」と願います。
金門の人の中には「台湾人でも中国人でもなく金門人だ」と話す人も多く見られました。大国の狭間で翻弄されながらも地元へのアイデンティティーを力強く持つ人が多いのも、沖縄と似ているポイントかもしれません。
後半へ続く
後半では、金門島の蒸留酒「高粱酒」や、シーサーのような「風獅爺」などから、金門の文化や沖縄との共通性などを紹介していこうと思います!