00年代沖縄インディーズブーム再考(上)ヒューマンステージと共に

 

 「当時は高校生でオリジナル曲を演るバンドは少なかったんですよ。ほとんどはコピーバンドで、大学生になってからオリジナルを作る、みたいな流れでした。彼らも高2まではコピーバンドで、高3からオリジナルを作り始めました。それがあって、他の高校生バンドも刺激を受けて曲を作り始めた、というのはあると思います」

 ただ、モンパチのヒットをもってしても山田さんいわく「モンパチが売れたというだけで、まだ(全国的な)沖縄インディーズブームには至っていなかった」という。

 そこにもう一つ火付け役を担ったのが、全国のインディーズバンドなどを紹介するテレビ朝日系「BREAK OUT」(1996-2001)だった。「沖縄から出て東京で活動していた、INDIAN-Hi(現IN-HI)やEAST WOMANなどが出てきたりして、テレビに出るバンドが決して遠い存在ではないという感覚が生まれてきました。そうやって切磋琢磨していたバンドの中にモンパチが食い込んできて、真っ先に売れましたからね。東京に行かなくても、沖縄にいて活動できるというスタンスを作りました」

 モンパチの他にも当時をけん引していたバンド名が、山田さんの口からは次々と飛び出した。「地獄車とか、BREACHとか、ザ・フッカーズとか。Anger From BallもスカイメイツもSSDも。他にもたくさん。県外から(全国的に人気のあるバンド)ナンバーガールを呼んだイベントをしていた時も、対バンしていたモンパチやAnger From Ballは全く引けを取らなかったです。沖縄勢も堂々と、対等かもしくは対等以上にやれるようになっていました」

【関連記事】00年代沖縄インディーズブーム再考(下)ヒューマンステージと共に

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長濱 良起

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フリーランス記者。
元琉球新報記者。教育行政、市町村行政、基地問題の現場などを取材する。
琉球大学マスコミ学コース卒業後、県内各企業のスポンサードで世界30カ国を約2年かけて巡る。
2018年、北京・中央民族大学に語学留学。
1986年、沖縄県浦添市出身。著書に「沖縄人世界一周!絆をつなぐ旅!」(編集工房東洋企画)

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