00年代沖縄インディーズブーム再考(上)ヒューマンステージと共に
- 2020/12/18
- エンタメ・スポーツ
「黒服系はライブの見せ方や衣装も凝っていました。化粧もして。階段の下に『ステージ衣装作ります』っていう服飾デザイナーの女の人までいましたよ。一番大変だったのは、バラード曲の時に演出で、枕の中身の羽毛を中2階から1階に舞い降らせるとかね。掃除が大変でしたよ(笑)。(ロックバンドの)黒夢のコピーをするバンドも多くて、いざ本物の黒夢がライブしに来た時には『この人たちが本物なのか』と思いましたよ」
「ブルーハーツのコピーバンドは、もう、みんな『リンダリンダ』を演っていましたよね。とにかくもうみんながリンダリンダ。モンパチも最初はブルーハーツ系のコピーバンドでした。たまにHi-STANDARDのコピーもしていました。当時はボーカリストもいて4人バンドだったんですよ。一時期は毎週、高校生がライブしていましたね」
今でこそ高校生バンドは学校の軽音楽部に所属して腕を磨いてコンクールに出る、というのが主流だが、当時の高校生は自分たちでバンドを組んで自分たちでスタジオを借りて、仲間を集めてライブハウスでイベントをする、というのが一般的だった。宜野湾市周辺の高校生バンドはよくヒューマンでライブをしていた。
「普天間高校もだし、中部商業もだし、西原高校も浦添高校もいろいろ。あの時はまだちょっと緩い時代で、酒とかタバコとかもやる子もいたから、このことに関しては口酸っぱく言っていましたね。イベントもちゃんと借りた時間枠を守らせて、片付けまでに終わるようにさせていました。だから彼らにわざと『山田さんは怖い人だ』っていうイメージを付けさせていたんですよ。『あの時山田さん怖かったんだよなぁ』って言われたりね。成人式にお店に飲みに来てくれたバンドマンもいて嬉しかったですよ」
お笑いも支えたヒューマン
ヒューマンステージが支えてきたのは、何も音楽シーンだけではなかった。お笑いや演劇もそうだ。1996年に旗揚げした芸能事務所「オリジン・コーポレーション」のお笑いライブ「起笑転結」は、設立当初から月に1回、ヒューマンステージで行われていた。
沖縄県内で知名度の高いこきざみインディアンやベンビーらがデビュー当時から所属し、全国区でも活躍するスリムクラブやキャン×キャン、しゃもじなどを輩出してきた。
「初ライブ初日の準備で、脚立から落ちて骨折った人もいてね。オリジンに所属していて東京に拠点を移した芸人が全国区のテレビに出てきた時はうれしかったですね」
各ジャンルの垣根を飛び越えて“沖縄一有名な裏方”として、沖縄の新しい世代による芸能の興隆を見てきた。
モンパチの出現
00年代の沖縄インディーズブームの代名詞的存在だったのは、紛れもなくMONGOL800(モンパチ)だった。2枚目のアルバム「MESSAGE」(2001年)が300万枚近く売れ、その名を全国に轟かせていた。浦添高校在学中に出した前作アルバム「GO ON AS YOU ARE」(1999年)はリリース当初、県内だけでも1万枚以上のセールスがあり、沖縄の市場を考えると、その売れ行きは全国市場でのミリオンヒットに匹敵していた。