今こそ喜納昌吉① 隣人だった『ハイサイおじさん』の過去
- 2021/6/12
- エンタメ・スポーツ
「すべての武器を楽器に」―。1974年に米国ワシントンD.C.でのコンサートで口を突いて出たフレーズは、世界平和を希求するミュージシャン・喜納昌吉を表す象徴的なものとなった。『ハイサイおじさん』の誕生に秘められた思いや、突然演歌『富士山Japan』を出した理由とは。6月23日の慰霊の日を前に、改めて平和に対する思いや、音楽家・政治家としての活動を振り返ってもらう。
音楽家・喜納昌吉、登場
5月某日。本人が経営する那覇市牧志、国際通り沿いのライブハウス「チャクラ」に喜納氏は現れた。前日にお店に出向いて関係者にアポの相談をしてから翌日の取材だ。フットワークは軽い。
「どうもどうも」と、テーブルに直接置くように差し出した名刺。そのど真ん中に潔くゴシック体で印刷された「音楽家 喜納昌吉」の文字が、存在感を放つ。
奇しくも沖縄はコロナ禍による緊急事態宣言の真っ最中だった。チャクラも閉店中だ。
「開けようと思ったら閉めないといけなくなって、その繰り返し。もう何回準備したか分からんよ」。今は薄暗くなった店内には、テーブル上に配信ライブ用の機材がセッティングされ、月に一度の活躍のタイミングを待っていた。
ハイサイおじさんは、どんなおじさんだったのか
「ハイサイおじさん ハイサイおじさん 夕びぬ三合ビン小 残とんな」―。喜納の最初の作品であり、代名詞的な曲の一つに数えられる『ハイサイおじさん』のシングル版がリリースされてから、45年が経った。沖縄県内だけで30万枚を売ったというから、沖縄が日本人口の1%と言われることを考えると、単純計算で国内3000万枚を売ったのにも匹敵するような大ヒットだった。沖縄の人なら誰でも分かる“県民曲”ともいえる。
この曲を作ったのは喜納が13歳の時、1961年のことだった。シングルカットされる前、父・昌永のアルバム収録曲としてレコーディングされたのが69年。喜納は陶芸に例え「13歳の時に粘土で形を作っておいて、8年寝かして窯に入れたわけさ」と語る。
この「おじさん」にはモデルがいる。さて、どんな人物だったのか。