琉球王朝で最も悲劇を味わった王 尚寧王の生涯

 

 実は尚寧王、こちらの尚維衡の流れを組む『浦添尚家』の血筋なのである。

 なぜ王位継承に厳格なあの王朝時代に、支流である浦添尚家から王位継承者が擁立されることになったのか。ここが一つの大きなポイントである。

首里から浦添までの道にある安波茶橋

琉球と島津、そして戦国日本

 その当時の琉球の外に一つ目を当ててみると、アジア海域もいよいよ西洋列強の影響を受け始め、対外貿易が厳しいものとなってくる。

 琉球の大交易時代にも陰りが見え始めている頃だ。そして日本の国内では、織田信長から豊臣秀吉の時代となり、秀吉は九州で勢力を拡大していた島津をも平定し天下統一を収める。

 そうなってくると、秀吉の目はアジア、そして琉球にも向けられ、琉球に対しては島津を通して日本の支配下に入るよう、さもなければ国を滅ぼすという恫喝とも取れる書簡を送っている。

 島津としても、度重なる戦によって藩の財政が疲弊しており、何としても逸早く琉球の支配権を手にし、対外貿易による権益の獲得、奄美割譲による領土拡大を目指していた。

 このような史上前例の無いような危機に苛まされている矢先、時の琉球王、尚永王が王位継承となる男子を儲けずして亡くなってしまう。となると次期の王は誰だ。

 それまでであれば、王位継承に対して内部での権力抗争すら起こっていたわけだが、時の継承順位第一位であるはずの尚久はこれを固辞し、自分の妹の子である甥、しかも浦添尚家の尚寧を推したのであった。 

 浦添尚家としてはまさかの浦添からの王位輩出、しかし喜びもつかの間。その先に待っていたもの、それこそが琉球史上最大の危機『薩摩侵攻』であり、琉球最大の激動期となっていくのである。

 薩摩、日本、明、西洋列強、そして小国琉球。まさに尚寧王の苦難が目に浮かぶようだ。 

 しかしこのような窮地な状況でも、どうにかのらりくらりを交わし続ける琉球。明という存在も一つ後ろ盾になっていたのかもしれない。事実、琉球は再三に渡り明に助けを求め続けている。しかし当時は明も対日や対西洋列強との緊張関係にあり、往年のパワーを持ち合わせていないという大国故の情勢に陥っていたのであった。

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