琉球王朝で最も悲劇を味わった王 尚寧王の生涯

 
尚寧王の墓

 今月15日まで浦添市美術館で「尚寧王展」が開かれている。

 没後400年にあわせて開かれるこの展示、琉球王朝歴代で最も悲劇を味わった王の人生を知ることができるものとなっている。

 「浦添ようどれ」に安置されている尚寧王一族の石厨子の展示、尚寧王が王位即位後に首里から浦添までの道を整備したことを称えた石碑「ようとれの碑」も展示されている。どちらも先の第二次世界大戦にて大きく破壊されてしまったものを、丁寧に接合し復元した貴重な資料である。

 この記事ではあらためてその生涯を振り返ってみたい。

 尚寧王は第二尚氏7代目の王で、王位期間は1592 – 1620年。その在位期間最中の1609年に起きた琉球史上最大の危機、『薩摩侵攻』の言わばトリガーとなってしまった王で、薩摩による武力支配の末、薩摩〜江戸へと連行を強いられる。

 また、帰国の条件としてあまりにも理不尽な起請文にサインを強要され、その後日本の属国となる決断をせざるを得なかった総責任者でもあったのだ。

 一般的に、その歴史的自責の念から尚寧王は死後、琉球歴代の王が眠る王陵『玉陵』ではなく浦添グスクの袂にある浦添ようどれに葬られることを自らが望み、今でも静かにそこに眠っているのであろうと伝えられたりもする。

 しかし、歴史の様々な時代背景をしっかり紐解いていくと、なぜ尚寧王が薩摩侵攻の起きた激動時代の王であったのか、そしてなぜ歴代王の中で尚寧王だけが浦添に眠ることを切望したのか、という表面上にはなかなか見えにくい歴史事実が浮かんでくる。

首里尚家と浦添尚家

 尚巴志が築いた琉球王朝第一尚氏が終わりを告げ、金丸こと尚円王が第二尚氏期をスタートさせたのが1469年。第二尚氏初期には、女性首謀のクーデターが立て続けに起こる。

 尚円王の側室オギヤカによる次代尚宣威王の王位剥奪事件、その尚宣威王の娘と尚真王(尚円王とオギヤカの息子)の間に出来た王位継承第1位の尚維衡。その尚維衡の王位継承権剥奪事件もオギヤカと尚維衡の継子による陰謀だと言われる。

 その後尚維衡は浦添へと追いやられ、浦添グスクで隠居生活を送る。

 ここから尚家の中には首里本流の『首里尚家』、そして浦添で別流を組む『浦添尚家』という流れが生まれることになるのである。

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