【復帰50年】沖縄最北端で感じる「復帰闘争」
- 2022/4/6
- 社会
今年は沖縄が日本に復帰して50年の節目だ。
復帰記念日の5月15日には、沖縄と東京の2会場で同時共催記念式典が開催される。復帰の年に生まれたいわゆる「復帰っ子」は50歳となり、すでに多くのウチナーンチュは復帰後生まれだ。復帰50年という節目において、今一度歴史を共有していきたい。
国頭から見える鹿児島県
沖縄本島最北端の辺戸岬には「祖国復帰闘争碑」が建っており、その碑から復帰当時の人々の熱い盛り上がりを感じることができる。
天気のいい日には碑のはるか後方海上に与論島が微かに見える。直線距離にしてわずか22kmほどで、那覇市から沖縄市あたりまでと同じ距離だ。車で走れば20分位だろう。かねてよりお互いの島を目視できていたと考えれば、双方の間で交流が盛んだったことも容易に想像できる。
何より1609年に薩摩・島津軍が琉球侵攻を果たし併合を行う以前、奄美群島は琉球王府の直轄地だったのだ。特に沖縄本島に近い与論、沖永良部島には今でも琉球文化が色濃く残っている。
侵攻後しばらく奄美群島は薩摩と琉球に両属という形になるが、廃藩置県を経て奄美群島は正式に鹿児島県の一部となり、琉球・沖縄から完全に切り離され別々の行政区分となった。
近くて遠い島
さらに第二次大戦における日本敗戦によって、今度は沖縄と奄美群島が日本から分離されアメリカ政権下となった。
しかし奄美では、沖縄本島に向けた復興支援で生じた格差や長期にわたる食料不足などの状況から激しい島ぐるみ復帰運動が展開され、戦後8年目の1953年沖縄よりも先に日本復帰を果たした。復帰日が12月25日だったことから、当時の世間では「アメリカからのクリスマスプレゼントだ」と言われていた。
奄美群島が復帰すると沖縄と奄美は国籍まで別となり、国頭と与論島の間に国境が引かれたことでますます近くて遠い島となった。