琉球王朝で最も悲劇を味わった王 尚寧王の生涯

 

 ついに痺れを切らした島津軍は時の将軍徳川家康の許可を得て1609年に琉球へ攻め込む。尚真王時代を境に特に大きな外国との交戦などを経てこなかった琉球は、戦の猛者集団である島津軍の手にあっという間に落ちてしまった。

ようどれへ続く暗しん御門

尚寧王、島津へ連行

 尚寧王はじめ三司官、その他重臣200名ほどが薩摩へと連行され約2年もの間軟禁されることとなるのであった。その間、尚寧王は江戸にも上り、途中駿府で家康に謁見、江戸でも秀忠に謁見している。琉球ではその間島津によって検地が実施され、その後の年貢高などが定められた。

 2年という時を経て尚寧王および一行は解放、ようやく琉球への帰国を認められるものの、掟15か条という法令の制定、さらに子孫代々まで島津氏への忠誠を誓うという起請文への署名を条件とさせられる。

 三司官の一人である謝名親方以外は署名をしたものの、謝名親方は断固拒否し惨殺させられたのであった。

尚寧の人事と島津の強行

 尚寧王が全幅の信頼を寄せた「謝名親方」こと久米村の「鄭迵」を異例の三司官に登用したことも、反日・親明体制を強化させ時代を大きく動かす要因となったのであった。

 鄭迵は終始、最後の最後まで一人島津の強要を拒み続け、後に島津の侵攻を決定的にさせ、島津によって惨殺された人物となった。

 結局は彼のせいで琉球は薩摩に攻め込まれんだという人間も多かったようだが、決して屈することのない頑強な精神は、今ようやく見直されてきている。

 恩納村にあるリザン・シーパークホテルのリザンは、謝名親方の名「謝名利山」に由来するものなのだ。

 我々もここに一人の琉球人よりも琉球人であろうとした謝名親方の魂を見るようだ。彼の死から学ぶこと、気付かされることはとても多い。彼の死無くしては琉球侵攻という一大事件ももしかするとここまで大きな歴史の爪痕にはならなかったのかもしれない。

二大国への属国で身につけた強かさと柔軟さ

 実は薩摩侵攻の後、琉球は日本と中国の間に両属という立ち位置でさらに強かさを身につけていくこととなる。そしてこの時代にこそ、琉球ルネッサンスという文化や芸術、政治や文学にも精通していくことになるのだ。

 組踊や琉歌、サトウキビ、黒糖、芋、治水技術などなど、両国からの文化や技術をうまく取り入れ自国特有の文化へと変化させていった。これが今の沖縄独特の文化の基礎であり、いわゆる『沖縄らしさ』の起源なのである。

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