【歴代知事④】「平和の礎」建立 基地問題を世界に発信した”研究者”知事 4代目・大田昌秀

 

代理署名を拒否「目に見える形で縮小されるまで」

SACO合意から26年。今も宜野湾市の中央に位置する米軍普天間飛行場

 平和の礎を建立した同時期、県政の最重要課題だった米軍基地の整理・縮小を進めるため、大田は一つの大きな決断をしていた。軍用地使用の契約更新を拒む地主に代わって知事が担う代理署名を拒否することである。

 直接的なきっかけとなったのは、1995年春に米国防総省のジョセフ・ナイ国防次官補(当時)によって作成された「東アジア戦略報告」だった。米軍がアジア・太平洋位地域において10万人の駐留体制の維持が必要とする内容で、在沖米軍の兵力や基地機能の恒久化を示唆していた。

 大田は「戦後50年の節目の年を県民の宿願である戦後問題を解決する年として位置づけ、基地問題に真正面から取り組もうとしていただけに、『ナイ報告』に大きな衝撃を受けた」と振り返る。

 代理署名を拒否すれば国と正面から対立することになり、「国の財政支出に多くを負う県にとっては、補助金などの削減で政府から締め付けられると、たちまち財政事情が厳しくなるのも目に見えていた」と懸念もあった。それでも1期目に当選した直後の1991年、米軍用地の強制使用手続きの一環である「広告・縦覧代行」を応諾するに当たり、政府が示した基地の整理・縮小がほぼ前進していなかったこともあり、「基地問題が確実に目に見える形で縮小されるまでは、強硬に意義を申し立てねばならない」と決意を固めた。

米兵少女暴行事件、県民大会で大きな”うねり”に

 大田が代理署名拒否を決断した直後の1995年9月4日、沖縄を揺るがす事件が起きる。米兵3人による少女暴行事件だ。

 米軍基地に由来する様々な事件・事故に長年悩まされてきた沖縄。この事件で県民の怒りが頂点に達した。そんな中、大田は9月28日の県議会で代理署名拒否を正式に表明。その決断は県民世論から圧倒的な支持を受けた。さらに10月21日には自民党の嘉数知賢県議会議長や後に5代目県知事となる県経営者協会の稲嶺惠一会長らも参加して県民総決起大会が開かれ、基地縮小や地位協定の改定を求める運動は保革を超えて大きな”うねり”へと発展していった。

 大会で壇上に立ち、「行政をあずかる者として、一番に大事な幼い子供の尊厳を守れなかったことについて、心の底からおわび申し上げたい。本当に申し訳ございませんでした」と謝罪の言葉が真っ先に口を突いた大田。さらに続けた。「そのような県民の意向を踏まえて、私は代理署名を断りました」「これまで沖縄は協力を余儀なくされてきたけども、今度は日本政府や米政府が協力する番です」

 事件を重く見た日米両政府は「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」を設置し、翌1996年4月に橋本龍太郎総理とモンデール駐日米国大使が米軍普天間飛行場の5〜7年以内の全面返還に合意。しかし、同年12月のSACO最終報告で県内移設が条件となることが判明し、大田は政府が示した海上ヘリポート案について、機能が従来より強化されることや基地の恒久化に懸念を示して反対を表明した。

 SACO最終報告から既に26年近く。四半世紀の間に各知事の県政下で紆余曲折はあったものの、移設問題は現在に至るまで解決を見ていない。

独自色の強い政策生んだ2つの経歴

南風原町新川にある沖縄県公文書館

 代理署名については、国に職務執行訴訟を起こされ、県は翌1996年に最高裁で敗訴。大田は「判決は県の主張をことごとく退けており、誠に残念」と憤りを語ったが、次の手続きとなる広告・縦覧代行に応諾。支援する革新政党を中心に反対を求める声も多かったが、最高裁の判決や国との関係を考慮しての決心だった。

 1998年11月の知事選には3期目を目指して立候補した。しかし広告・縦覧代行などで革新勢力内に不信感が生まれていたことや、バブル経済崩壊後の不況に加え、国との対立で沖縄振興を停滞させたとして「県政不況」のキャンペーンを張った保守勢力に押され、歴代で2番目に多い374,844票を獲得した稲嶺に37,464票差をつけられて落選。ただ大田は3回の知事選を通して最も多くの票を集め、「手応えは過去2回に比べても十分に感じることができた。不思議に後悔の気持ちは起きなかった」という。

 その後も参議院議員を1期務め、さらに沖縄国際平和研究所を立ち上げるなど、沖縄戦の研究や基地問題の発信に人生を捧げた大田。ベルリンの壁崩壊やソ連崩壊など、冷戦構造が崩れる中で平和を希求する機運が世界で高まりを見せた1990年代、沖縄という小さな島から世界へ平和の尊さを発信し、2017年4月にはノーベル平和賞の候補にノミネートされた。しかしその頃から体調が悪化し、92歳の誕生日となる6月12日、この世を去った。

 副知事として県政を支えた東門さんは「当時、県外、国外には沖縄にたくさんの基地があるということすら知らない人が多かったんです。そんな中、大田県政は基地問題に苦しむ沖縄の現状、そして平和がいかに大切かということを国内、世界に向けて発信した。それが大田先生の一番の功績だと思います」と評する。基地問題では、パラシュート降下訓練の移転や県道越え実弾射撃訓練の廃止など、実際に成果も挙げた。

 その他、知事就任前は米国で研究を重ねる時期が長かったことから、行政関係資料などを細かく保存する米国の文化に感化され、沖縄に関する国内外の歴史的資料を発掘、蓄積する県公文書館を設置。沖縄の経済的自立を目指し、後の「沖縄21世紀ビジョン」に引き継がれることになる国際都市形成構想の策定にも取り組むなど幅広い分野で手腕を発揮した。

 苛烈極まる沖縄戦での壮絶な体験、広い視野と深い歴史認識を養った研究者としての道。歴代知事の中でも異色な2つの経歴が、独自色の強い大田の政策を生み出す源となった。大田が「平和を愛する共生の心」と説いた「沖縄の心」は、本土復帰から半世紀が過ぎた今なお、基地問題に苦しむ沖縄の人たちに通底する思いだろう。

参考書籍「沖縄の決断」(大田昌秀著、朝日新聞社出版)

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長嶺 真輝

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ながみね・まき。沖縄拠点のスポーツライター、フリーランス記者。
2022年3月まで沖縄地元紙で10年間、新聞記者を経験。
Bリーグ琉球ゴールデンキングスや東京五輪を担当。金融や農林水産、市町村の地域話題も取材。

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