【歴代知事④】「平和の礎」建立 基地問題を世界に発信した”研究者”知事 4代目・大田昌秀

 
多くの人が参列し、手を合わせた大田昌秀元知事の県民葬=2017年7月26日、沖縄県宜野湾市の沖縄コンベンションセンター(首相官邸フェイスブックより)

 敵味方、民間人、軍人、国籍問わず、沖縄戦などで死没した全ての人々の氏名を刻む「平和の礎」。沖縄戦で激戦地となった糸満市摩文仁の丘に鎮座する。整然と羅列された24万人余りの名は、戦争の悲惨さや恒久平和の尊さを無言のメッセージとして国内外に発信し続けている。

 建立したのは1990年12月10日から1998年12月9日までの2期8年、沖縄県知事を務めた4代目・大田昌秀。男子学生で編成された学徒隊「鉄血勤皇隊」の一員として沖縄戦に動員され、九死に一生を得たが、戦闘で多くの学友を失った。

 なぜ、約12万人もの県民が命を落とす悲劇は起きたのかー。学者として沖縄戦の実相を研究し、多くの書籍を出版。「2度と悲劇を繰り返してはならない」「戦争に勝者なし」という信念の下、知事就任後は民有地を米軍用地として強制的に使用するための手続き「代理署名」を拒否するなど、沖縄の基地負担軽減や平和の発信を県政運営の柱に据えた。

手榴弾抱えて野を走る 目にした悲惨な光景

 1925年6月12日、久米島具志川村(現久米島町)で生まれた。1歳の時に父・昌綱がブラジルに移住したため、母・カメは大田を含む4人の子どもを女手一つで育てた。小学校卒業後は学校で用務員として働いていたが、学校の教員や親戚の縁で沖縄県師範学校を受験することになり、1941年に進学した。

 必死で勉学に励んでいたが、太平洋戦争が緊迫してくると飛行場造りや陣地構築に動員されるようになる。1945年3月26日、ついに米軍が慶良間諸島に上陸し、県民を巻き込んだ地上戦が始まった。各地の地下壕に布陣している兵隊や住民に大本営発表を知らせる鉄血勤皇隊の「千早隊」に配属され、首里城下の地下壕に司令部を置いた大日本帝国陸軍第32軍の直属として情報宣伝を担った。

98高地にある第32帝国陸軍司令官牛島中将と参謀長長勇将軍の墓の前に立つ日本軍捕虜=1945年6月28日、糸満市真文仁(沖縄県公文書館所蔵)

 戦況が悪化すると、いつでも自決できるように2個の手榴弾を両脇にぶら下げ、「鉄の暴風」の中で各地を駆けずり回った。そこで目の当たりにしたのは、住民の命を顧みない軍国主義の行く末だった。書籍「沖縄の決断」(朝日新聞出版)で自ら振り返っている。

 「最も頼りにしていた守備軍将兵が行き場もない老弱者や子供たちを壕から追い出しただけでなく、大事に蓄えていた食糧までも奪い取ってしまう。しかも、赤ん坊を抱きかかえた母親が『お願いです。どうか壕に置いてやって下さい』と泣きすがっても、銃を突き付け容赦なく追い出すことさえあった」

 飢餓に苦しみ、食べ物を探す敗残兵を銃で狙い撃ちする米兵、降伏するために両手を挙げて豪から出ようとする味方を背後から射殺する日本兵、海岸に打ち上げられた無数の水脹れした死体ー。戦争の悲惨さをまざまざと見せ付けられ、沖縄師範学校の多くの学友も失った。

 なんとか生き永らえた大田は終戦後、県民のおよそ4人に1人が戦争の犠牲になったことを知り、深い絶望感に襲われる。それと同時に、強い思いが去来した。

 「なぜこういう忌まわしい事態が生じたのか。余生をその解明に当てねばなるまいと真底から心に誓ったものだ」

米国でジャーナリズム学ぶ 琉大教授として沖縄戦を研究

 収容所から出た大田は、米民政府の費用で日本留学ができる制度を利用して1950年に早稲田大学教育学部英語英文学科に入学。大学3年時には、生存した師範学校時代の学友たちに沖縄戦の経験を手記にまとめてもらい、後に沖縄学研究者の第一人者となる外間守善や安村昌享と協力して「沖縄健児隊」を出版した。

 書籍は松竹で映画化され、上映権で得た資金で鉄血勤皇師範隊の慰霊塔となる「平和の像」を建立。今も糸満市魔文仁にある沖縄師範健児之塔の傍らに設置されており、添えられた碑文には「若い身命を捧げて散った師友達の冥福を祈ると共に、それらの尊い殉死によって齎された平和への希願を永久に傳えるべく生存者達は心から祈るものである」と記されている。

大田らが建立した「平和の像」=糸満市摩文仁

 1954年3月に早稲田大を卒業後、同年7月には米国のシラキュース大学大学院に留学してジャーナリズムを専攻した。この時期、米統制化の沖縄では米軍による強制接収に抗議する「島ぐるみ闘争」が激しさを増し、1955年には米兵が6歳の女児を暴行・殺害した「由美子ちゃん事件」が発生。留学中の大田は、米国のジャーナリストたちが沖縄で圧政を敷く米軍を糾弾する記事を書いていたことに関心を寄せた。

 後の知事在任中、基地問題の解決を訴えるために8年間で7度に渡り訪米を重ねた。その理由を「県民のメッセージを伝えようと努めたのも、アメリカのこうした良心的知性派に対する信頼があるからに他ならない。そして私のこの信頼感こそは『米留』時代に培った最も貴重な成果の一つだったのだ」と振り返る。

 1956年に帰国後は琉球大学で講師としてメディア社会学の教鞭を取り、自身も沖縄の新聞研究や英字新聞の発行などに着手。1968年には教授に昇任し、その後は沖縄戦研究に徐々に軸足を移し、第一人者として多くの書籍を刊行した。

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