多くの偉人たちが眠る「読谷」 琉球史の物語に思いを馳せる
- 2022/6/3
- 社会
隠れ生き延びた若按司
第一尚氏王統以前、琉球に三つの国(北山、中山、南山)が興り各地争いが絶えなかった。北山でも北山王位を争いクーデターが起き、読谷まで逃げ延びた一族がいた。今帰仁按司一族と呼ばれる一門だ。
この一族から、後に尚巴志が三山統一を果たすために加勢する重要な家臣が数多く輩出され、その子孫が琉球中に広がったという。一族の主導者が「丘春」であり、今帰仁の絶世美女「志慶真乙樽(しげま うとぅだる)」の息子と伝わる(志慶真乙樽は乳母という説もある)。
古くから語り継がれる「ムートゥヤナチジン」(元はみな今帰仁)という言葉にも信憑性を感じざるを得ない。
丘春の墓は読谷渡具地ビーチの泊グスク内にあり、隠れるように暮らしていたので「カクイグスク」とも呼ばれる。実際にお墓までたどり着くには洞窟のような道を進まなければならず、まさに隠れ住んだグスクだと感じる。
また、カクイグスクから比謝川を挟んだ対岸には丘春の祖先を葬った「仲昔今帰仁按司祖先之墓」が崖の中腹に建っており、丘春一族が常に祖先への祈りを絶やさなかったであろうことも感じられる場所だ。
他にも琉球音楽には欠かせない「三線」を最初に造ったと言われる「アカインコ」の墓も読谷ユーバンタの浜に建っているし、話が少し逸れるが琉球政府初代行政主席である比嘉秀平、さらに本土復帰を果たした際の行政主席であり初の沖縄県知事である屋良朝苗も読谷出身だ。
多くの琉球の偉人が眠る不思議な地、読谷。さらなるリサーチを続けていきたい。