戦後北谷ヒストリー① 劇的な変貌の裏側
- 2021/10/9
- 社会
地元の若者や世界各国からの観光客が集まる県内屈指の人気エリアとなった町「北谷」。
中でも美浜地区は、80年代の沿岸部海域埋め立てによって誕生した新しい街であり、現在もなお開発が進められている成長エリアで沖縄県民にとっても身近な存在ではないだろうか。しかし、北谷町がこれほど急激に目覚ましい発展を遂げた裏には、何らかの理由が隠れているはずだ。
その知られざるヒストリーをリサーチしてみよう。
小さな町は大きな村だった
北谷町といえば、比較的面積の小さい町というイメージがある。
土地の広さは、県内41市町村の中で第35位と実際に小さいのだが、お隣の嘉手納町同様、町内に横たわる広大な米軍基地があることもそんなイメージに影響しているのかもしれない。戦後70年以上が過ぎた現在も、キャンプフォスター、元海軍病院のあったキャンプレスター、そして嘉手納基地と、実に町面積の50%以上を米軍基地が占めている。
しかし琉球王朝時代の北谷は「北谷間切」という今よりもはるかに広範囲に及ぶ行政区だった。野國総管で有名な野國村や千原エイサーで有名な千原、軽便鉄道最北の駅「嘉手納駅」もあり、現在の嘉手納町自体も戦前までは北谷村の一部だったのである。