戦後北谷ヒストリー① 劇的な変貌の裏側
- 2021/10/9
- 社会
また、戦前は北谷村を代表する農作地帯であったため、当時は軽便鉄道もこの中心部を走っており、現在もその名残を示す「軽便橋」が普天間川に掛かっている。
飛行場を浮かび上がらせる川
都市化が進んだ今日では、どこからどこまでがかつてのハンビー飛行場だったのか見当が付きにくいが、北谷を流れる川を基準に見てみると分かりやすい。ハンビー地区は海に飛び出る出島のような地形になっており、両端を川と川に挟まれている。
その一つが普天間川だ。宜野湾からバイパスを通り北谷に向かう際、58号線ではなく伊佐裏側の海沿いの道を通ると、欄干にステンドグラスが施された「ニライ橋」が見えてくる。
この橋の下を流れるのが普天間川で、一つ上流に軽便橋が架かっている。ニライ橋を渡った後、アラハ公園入り口を横目に通り抜け北谷ドーム手前まで走ると、美浜橋の掛かる「白比川」がある。
ちょうどこの二つの川の間、奥行きは海から58号線まで。この土地全てがハンビー飛行場だったのだ。
アラハ沿岸を歩いてみるとより分かりやすい。かつてハンビー飛行場だった敷地の端から端まで遊歩道が整備されている。実際に「ハンビー」という住所は無いが、ハンビー地区の郵便局は「ハンビー郵便局」という局名になっている。カタカナ表記の郵便局は全国でも珍しいという。
小さい町でありながら劇的な変化を遂げている北谷町、これまでの歴史を知るとそのイメージがだいぶ変わるのではないだろうか。