戦後北谷ヒストリー① 劇的な変貌の裏側

 
かつては日本軍の「中飛行場」だった「嘉手納飛行場」(沖縄県公文書館所蔵)

嘉手納は北谷から分村した

 北谷村の土地は、沖縄戦米軍上陸直後に大規模接収された上、日本軍によって村内に建設されていた「中飛行場」が、戦後米軍の「嘉手納飛行場」として使用されることになった。

 嘉手納飛行場はその機能を徐々に拡張し、現在では極東一の規模を誇る空軍基地となっている。それに伴い、北谷村は基地を挟む形で北と南に分断され、双方の往来、行政手続きにも支障をきたすようになった。そのため昭和23年、やむなく村北側が分村し、嘉手納村が誕生したのだ

 北谷は戦争と基地建設に大きく翻弄されてきた過去を持ちながらも、近年では米軍基地跡地を有効に活用し、狭い土地ながら活発的な街づくりを展開している。

活況のきっかけとなった「ハンビー地区」

 北谷が現在のように活気づくきっかけとなったのは、間違いなく「ハンビー地区」の誕生だろう。

 1990年〜2000年代にかけてサンエーハンビータウン、アラハビーチがオープンし、ビーチ前の通りにもファッションや飲食などのテナントが次々とオープンした。夜になると、このエリア特有の外国風の雰囲気を醸し出す「ハンビーナイトフリーマーケット」にも多くの人が集まって活況を見せた。

 しかし「ハンビー」とはそもそも何なのか?実は北谷ハンビー地区とは、戦後米軍のコンパクトな航空基地「ハンビー飛行場」が配置されていたエリアで、そこから名前をとっている。

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