【復帰50年】8千人の反対デモのなか始まった自衛隊の沖縄駐屯

 
那覇到着の臨時第一混成群を花束で迎える

 今年5月、沖縄は本土復帰から50年の節目を迎えます。「アメリカ世」から「ヤマト世」への世替わりで沖縄振興計画がスタートし巨額の予算が投下されてきました。交通インフラをはじめ社会資本の整備が格段に進んだ一方で、格差や貧困、失業といった課題も残されたままです。年間に1000万人が訪れる国内有数の観光地でありながら広大な米軍基地が返還されないまま残されています。
 HUB沖縄では様々なエピソードでこの50年を振り返り、何が変わり、何が変わらぬままなのか、考えていきます。第1回目は復帰に伴って始まった自衛隊の沖縄への駐屯です。

頼みの綱は、電々公社の専用線一本だけ

 <昭和四十七年十月六日!この日は、私にとって終生忘れることができない日である。群主力第一陣の約百名を指揮して、沖縄移駐の第一歩を印したのが、十月四日、それから、中一日おいての十月六日、那覇駐屯地に対して、約八千名のデモを受けた。>

 1972年の沖縄の本土復帰にともない、10月から自衛隊の移駐が始まった。沖縄初の陸上自衛隊部隊となる臨時第一混成群で初代群長となったのは、桑江良逢氏。首里の出身で、戦前に陸軍士官学校を出て、戦後は陸上自衛隊に入隊、北海道で連隊長などの経験を持つ。沖縄出身であることから抜擢された。
 回想録『幾山河 沖縄自衛隊』のなかで、移駐3日目にして経験した大規模デモのことを詳しく記している。

 <いくら身体強健、体力旺盛な自衛官でも、妥当なところ、せいぜい三倍ぐらいが限度ではなかろうか。それが、なんと約十倍余である。こちらとしては手も足も出ない。最悪の場合は、本館に立てこもろうと決心した。(中略)沖縄の場合、数時間はおろか、数日たっても、増援部隊が来着するかどうか、あてにならない。おまけに、「我等かく戦いつつあり」と、状況を熊本の方面総監に報告しようにも、無線は距離的に通じない。唯一の頼みの綱は、電々公社の専用線一本だけであるが、これもいつ切られるかわからない>

 この時のデモは駐屯地の正門前で2、3時間集会が開かれただけで終わったが、凄惨な沖縄戦を強いられた沖縄では、旧日本軍のイメージで捉えられた自衛隊に対する県民感情は深刻だった。桑江氏も前掲書のなかでデモ隊から「日本軍帰れ!」とのシュプレヒコールを浴びたと記している。

 自衛隊に対する厳しい反応はさらに続く。自治体による自衛官の住民登録の拒否に始まり、子弟の入学や成人への式参加、ゴミ収集、さらには電話交換まで拒否された。官舎の整備が追いつかず民間アパートに入居する隊員も多かったが、家主に入居を拒否するよう求める運動もあったという。

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