【復帰50年】8千人の反対デモのなか始まった自衛隊の沖縄駐屯

 

 地域の行事から隊員を締め出す動きも広がり、73年に知念村(現在の南城市の一部)で開かれた陸上競技大会では、隊員が参加したため村民ともみ合いになり、県警の機動隊が出動する騒ぎとなった。那覇市で5月に行われる恒例のハーリーでも米軍チームには参加を認めながら隊員には拒否。認められるようになったのは、ようやく95年のことだ。

 復帰翌年の73年にNHKが県内で実施した調査では、自衛隊が「必要である」と答えたのは、わずかに22.9%。「必要ではない」としたのは、60.1%に上った。

 75年3月に琉球大学短期大学部に合格した海上自衛隊の海士長は入学金の納入や必要書類の提出を済ませたが、「自衛隊による教育現場への介入」だとする大学の自治会や職員組合による入学阻止運動に遭う。4月になり海士長が登校を試みるも、学生や教職員に阻止され、入学を認める立場を取った学長も軟禁される事態となった。18回にわたり登校を試みたが、一度も受講できないまま海士長は入学を取り下げる事態もあった。

「うちにはそんな子はいません」と門前払い

 こうした反応は復帰前から予想されていただけに、自衛隊は移駐の数年前から事前工作を行なっていた。それを担ったと明かすのが現在は読谷村で暮らす石嶺邦夫さん(87)だ。

 沖縄の復帰を4年後に控えた1968年のことである。沖縄銀行の本店に勤務していた石嶺さんを一人の男が熊本から訪ねてきた。携えていたのは、かつて石嶺さんが陸上自衛隊に勤務していた時の上官からの紹介状だった。

 石嶺さんは59年から3年間、鹿児島の第12普通科連隊に所属していた。米軍統治下の沖縄からパスポートを携帯しての勤務。連隊で沖縄出身者は自分だけだったという。

 銀行に石嶺さんを訪ねたのは、西部方面総監部の日高晴可一佐。初対面ながら、「沖縄は近い将来、復帰する。その環境整備に向けた協力をお願いしたい」と切り出してきた。

 「具体的には、隊友会(隊員OBの会)などの協力団体の結成、沖縄における自衛官募集、そして来るべき部隊の沖縄移駐に向けた広報活動をしてほしいという要請でした。すでに自衛隊を離れて6年が経っていましたが、私はこれを新たな任務付与と捉えたのです」(石嶺さん)

 石嶺さんは早速、銀行勤務のかたわら人づてに隊員OBに声をかけてまわり、翌69年に沖縄隊友会を結成。石嶺を会長に23人でスタートした。

最初期の沖縄隊友会のメンバー23人。最前列中央が石嶺邦夫さん

 沖縄では反自衛隊感情が強かったのは先に述べた通り。隊友会に続いて父兄会も結成しようと隊員の父兄のもとを訪ねて回っても、「うちにはそんな子はいません」と門前払いされることもしばしばだったという。家族に自衛隊員がいることを隠さないといけない時代だったのだ。

 それでも、当時の琉球政府で通産局長だった小橋川朝蔵氏に会長となってもらい父兄会を設立。70年には、國場組社長の國場幸太郎氏を会長に、経済界を中心とする自衛隊協力会の立ち上げに奔走した。

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