佐敷に存在した知られざる米軍バックナーハウジングとは

 
馬天港 (沖縄県公文書館資料)

 先日6月23日は沖縄にとって、沖縄県民にとってとても大事な、戦後75年目の『慰霊の日』であった。

 最近のニュースなどでも話題になっているが、近年における急速な開発などによって県内各地の戦争遺跡がどんどんと減ってしまっているという。

 それによって沖縄戦が風化されてしまうことへの危機を感じると。

 確かに、特に近年の県内都市部では沖縄戦の爪痕などを感じさせないほどに発展し、この地があの悍ましい、地獄の中の地獄と表現された戦地であったことを感じることが難しいくらいである。

 今年は戦後75年、戦後すぐに生まれた方でも既に75歳にはなっているということになる。戦争体験者はどうしても年々減っていく現実。

 我々はその戦争体験者と直に向き合って、戦争の悲惨さ、醜さを生の声で聴き、言葉には代え難い感情と共に次世代へ伝えていくことが出来る最後の世代であるとも言える。

 そういった責任も持って、これからのこの5年、10年を使命感持って生きていくべきだとも思う。

 ただ私としては、また別な側面からのこの戦争の歴史、『戦争と沖縄』という関係性を伝えていくことも必要だと思い、今後色々と書いていこうと思う。

 今回紹介する『佐敷バックナービル(ビレッジの略)跡』にしても、過去に沖縄戦という歴史事実があり、その結果、戦後佐敷にもアメリカ軍の施設が出来上がった、アメリカの環境が存在していたということに繋がり、佐敷の歴史が大きく変わっていくことになるのである。

 我々はそういった部分にも注目し、戦争が、米軍が駐在することによって沖縄の歴史がどう動いてきたのかという側面も知っておくべきだと考える。

戦後の名残が残るハウジングエリアー『バックナー』

 佐敷の方々はもちろん、南城市に住んでいる方々にとっても、『バックナー』という名前はそこまで身近なものでないにしても、耳にしたことくらいはあるはずだ。

 実は戦後、佐敷にはバックナービルという米軍の住宅エリアが存在していたのである。

 与那原側から佐敷に入るとすぐ、津波古交差点というY字の交差点が現れ、そのY字を左側へ真っ直ぐ進むと佐敷名物、南国情緒溢れる『ヤシ並木ロード』に続く海岸沿いの331号線が伸びる。

 交差点を逆に右側へ向かうと、馬天小学校や住宅街、畑が広がる県道137号線へと繋がっていくのだが、実はこの一帯がバックナービルと呼ばれる米軍の住宅エリアだったのである。

 Y字の津波古交差点は、そのハウジングへと入る『入り口』ということで、『バックナー入り口』と呼ばれ、近年までその最寄りのバス停の名前も『バックナー入り口』という名前で存在していた。

 『バックナー』とは、先の沖縄戦で米軍の指揮を執った当時の陸軍中将『サイモン・B・バックナー』の名前に由来するものである。バックナーは沖縄戦終戦直前の6月18日に、日本軍の攻撃によって戦死し現在糸満真栄里にはバックナー慰霊碑が祀られている。

 バックナーという自軍の大将が殺されたことに憤りが頂点に達し、そこからアメリカ軍による住民を含めた無差別殺戮が高まっていったとも言われている。これだけの長期戦にならなければ、助かったはずの尊い命が多々あったかと思うと、戦争がいかに身勝手なのかをさらに痛感する。

僅かに残るアメリカの色

 かつてはその津波古一帯に米軍のハウジングが存在していたと述べたが、近隣を車で通り過ぎるくらいではその名残にはほぼ気付かない。それくらい過去とは風景が一変している。

 しかし、実際にその近辺をゆっくりと歩き回ってみると、確かにそれらしき過去の痕跡と見て取れる建築物や建築遺構などが目に入ってくる。

 そしてそれらがいざ自分の目の当たりになると、これまでに学んできた歴史教育としての事実が頭の中で一気にリンクし、ハッとさせられる感覚になる。目の前にある、事実としてのインパクトがガツンと頭に入ってくる。

 こういうことも大事なことだと思うのである。読んで聞いてという歴史だけでなく、実際に目の前に現れる事実としてのオキナワンヒストリーに触れる。

実際に目にすることが出来る痕跡

 例えばどういった痕跡を見ることが出来るかというと、当時の米軍住居がそのまま残っている場所があったりもする。明らかに少し異風なというのか、洋風が混じったような佇まいを感じさせる古い瓦葺きの住居だとか。

 また馬天自動車学校の裏手の海岸には、当時のハウジングエリアからの排水を海に流すための排水溝の基礎となるコンクリート跡が今でも残っていて、実際に目にすることが出来る。

排水溝の基礎跡

 馬天自動車学校自体も、当時は大きな米軍の食料倉庫があった場所だという。

 その僅かな面影から当時の様子をイメージし、米軍とウチナーンチュの間にはどういう生活が繰り広げられていたのかを想像する。

なぜ佐敷であったのか

 では、なぜに佐敷に米軍のハウジングエリアだったのかというところだが。

 尚巴志を輩出した佐敷の港『馬天港』。尚巴志も佐敷出身だったからこそ琉球統一に成功したと言っても過言ではない。

 そう、はるか昔から佐敷の馬天港は琉球屈指の良港としてそもそも発達しており、また近代の戦前戦後においても島内外への物資輸送などに適していたという部分が一つ。

 さらに、戦後間も無く佐敷の丘陵地の上部にある玉城の親慶原に、それまでは具志川の栄野比にあった米軍政府が移り、その地が米軍の中枢地となったことが大きい。

 しかもその僅か後に、沖縄民政府も米軍政府すぐ側の佐敷村新里、今のユインチホテルの地へと移ってきて、当時は現在の南城市佐敷、南城市玉城あたりがわずか3年ほどの期間ではあるが、行政の中心地だったのである。

 戦後はさらに、戦争で散乱した砲弾や戦闘機材などを拾い集める鉄スクラップ事業が最盛期を迎え、集められたスクラップがやはり馬天から輸出されていたり、輸出するための大手鉄屑買取企業が存在したりもしていた。当時は大東島への航路も馬天港であったため、人口が急激に増え街が活性化した。

津波古 (沖縄県公文書館資料)

 クジラを捕る捕鯨業も栄え、県の水産試験場もあった。さらに製糖工場もあれば劇場や料亭なども立ち並ぶ県内屈指の繁華街へと成長したのだった。

 そこで1960年代後半、小さなエリア佐敷に新たな居住エリアを確保するという流れで、佐敷干潟の一部が埋め立てられて、そこへそれこそ、その名の通りの新しい街『新開エリア』が誕生するというわけなのである。

 その後はやはり都市部への人口流出や人口集中があって伸び悩みの時期もあったが、今でも少しづつ伸びてはいるようで、近年ではスーパーや飲食店も増え、オシャレな街並みに人気が集まっているエリアである。

 新しい南城市役所も、実は住所は佐敷なのである。

 元を辿れば、尚巴志の祖父である鮫川大主が伊平屋を追われた後に三方を山に囲まれた地として佐敷に住み始め、その後佐敷の地から琉球を初めて統一するという偉業を成し遂げた尚巴志を輩出した。

 その尚巴志が父である尚思紹と共に住んでいたと言われる佐敷グスクは、地図で見るとその位置に驚くのだが、三方を山に囲まれたちょうど真ん中の山の中腹に位置していて、あの時代にこの真ん中という位置をどう測量したのかと思うくらいなのだ。さらには対面にはしっかり伊平屋が面しているのである。

 戦前戦後と様々に紆余曲折を経験してきた旧佐敷町、その存在は確かに歴史上幾度となく重要な土地となり、もしかすると今後の沖縄にとっても重要なキーエリアとなっていく土地なのかもしれない。

 とにかく、戦争を忘れないことも間違いなく必要なことだが、歴史を認識しその背景にはどういうことがあったのか、どういう流れがあり今に繋がっているのか、ということをしっかり把握するということも大事だと考える。

 我々が後世に伝えていくべきことを、自分たちなりに様々な角度も踏まえ学び伝えていこうと思う。


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