コザ暴動は「反米暴動」だったのか③ そしてコザで
- 2021/9/15
- 社会
本土紙報道に「またか」の感
「忍従25年許すな治外法権」「守礼の沖縄荒れる―許すな治外法権」
本土各紙はそうした見出しで、沖縄現地の反響、談話などで紙面を埋めた。社説で毎日新聞は「沖縄の人をここまで追い込んだのは米軍による人権無視がある。もう忍耐の限度に来ている」と書き、朝日は「ささいな交通事故から反米行動の火柱が焼上がった沖縄の危機的情況を正確にとらえ解決策を考えることが重要だ」と書いた。
本土紙報道の根底には、長期の米軍統治下にあって自由、自治を奪われ、差別され、人権侵害を受けていてそれに抵抗している琉球人像があった。それは琉球人力士琉王が、アメリカ人力士高見山に勝った時、評論家の米国圧政に抵抗する力が琉王にあって高見山に勝ったと言った言葉を思い出させて、「またか」との感さえ持った。琉球人のステレオタイプは抵抗する人という見方に違和感があるからだ。
第二尚氏王国時代、農民の生活は掘っ立て小屋に住み、着た切り雀で寝具などもなく、食事は芋と汁という粗末なもので、その生活は過酷以外の何ものでもなかったが農民一揆が起きた記録はない。同時代の士族も数代に一度しか職につけず、無職の状態が長く生活は楽でなかったが、造反は起きていない。大日本帝国が琉球王国を併吞したとき、琉球人の中には反対したものはいたが抵抗までは起きなかった。歴史上の琉球人のステレオタイプは抵抗しない人である。
米軍は占領後住民の抵抗を警戒したが、何も起きなかった。琉球人はアメリカ人に復讐心を持たなかった。見たことのない物、食べたことのない珍味に驚き、それらを享受することに抵抗はなく、アメリカの文化、生活に慣れて行った。
「ヘイ、ママサン」「ヘイ、ハンチョウ」と住民に気さくに声をかけ、チュウインガム、クッキー、たばこ、ウイスキーなどを与えるアメリカ人の気質に、琉球人は親近感を持つようになった。米兵が家族帯同すると、琉球人の住宅街に外人貸住宅に、アメリカ人家族が住むようになった。琉球人と米人との隣人関係が生まれた。アメリカ人との友好関係も生まれた。ただ信条、政治的立場からアメリカ人、アメリカを嫌う一部の人たちはアメリカ、アメリカ人反抗的だった。それが米軍統治時代の実態であった。
「コザ暴動」との呼称が定着する
本題に戻ろう。事件の当日琉球新報にコザ市で暴動との記事が出て、翌日同紙に「騒乱罪適用されず、証拠なく」と書かれる中、革新団体は合同会議を開いて、「この騒動は米軍の圧政と矛盾の中から生じたものであり、米軍は深く反省すべきだ。むしろこの事件に追い打ちをかけるような関係者の一斉逮捕は県民をますます刺激するだけだ」との意見を発表して弁護団を結成した。
革新団体は騒乱罪適用に反対して警察、検察を訪問して「騒乱罪適用をしないで欲しい、逮捕をしないで欲しい」との陳情を頻繁に行った。このような推移の中で事件をコザ暴動と称するようになり、呼称が定着していった。
そしてこの事件を流言蜚語によって民衆を動員した暴動で、偶発的なもので、その要因は米軍支配体制への抵抗であり、25年間にわたる異民族支配がもたらした抑圧と差別への鬱積、人権侵害に対する積年の怨念もあったとする見方も定着していった。