琉球、江戸、アメリカにまで影響を与えた一人の男「ジョン万次郎」
- 2022/1/12
- 社会
高知(土佐)出身の偉人といえばおそらく坂本龍馬が思い浮かぶだろう。しかし沖縄・琉球にも深い所縁があり、この人物無しに今の日本はなかったと言わしめる高知出身の人物がもう一人いる。
それが「ジョン・万次郎」だ。今回は意外と知られていないジョン・万次郎と沖縄の接点や彼が残した偉大な功績をお伝えしよう。
無人島でサバイバル生活の14歳
ジョン万次郎は中浜万次郎の名でも知られるが、中浜姓は後にその多大なる功績を認められ江戸幕府より授かったものである。
万次郎は1827年に土佐の中浜、現在の土佐清水市で生まれた。父親は漁師だったが万次郎が幼い頃に亡くなり、貧しい生活を支えるため早くから漁の手伝いに出ていた。
14歳になったある日、いつものように仲間5人と漁に出たが嵐に遭い漂流してしまった。流れ着いたのは中浜から760kmも離れた無人島「鳥島」だった。万次郎たちは島で鳥や海藻を食べながら生き延び、その期間は実に143日にも及んでいたという。
たまたまこの無人島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船「ジョン・ハラウンド号」によって保護され、万次郎たちは九死に一生を得た。
やっと日本に帰れると思ったものの、その頃の日本は鎖国政策の真只中だ。外国船が日本の港へ近づこうものなら、攻撃すらされかねない。大事をとった船長のホイットフィールドは日本への寄港はせず、捕鯨活動を続けながら万次郎たちを自国のハワイへと連れ帰ったのだ。
捕鯨船から生まれた名前
船の中で見るもの全てが新しかった。万次郎は初めて見る世界地図に特別な興味を持ち、世界の広さや自分の育った国・日本の小ささを思い知らされた。
一旦ハワイに到着した一行だったが、他の仲間を下船させる中ホイットフィールドは万次郎に類稀なる才能を感じ、アメリカ本国まで着いてこないかと誘うのだった。万次郎もまたまだ見ぬ広い世界に憧れを抱き、他の4人に別れを告げアメリカへと向かった。
ホイットフィールドは誠実で働き者の万次郎をジョン・ハラウンド号の名にちなんで「ジョン・マン (John Mung)」と呼び、我が子のように可愛がったという。
アメリカ上陸後はマサチューセッツにて学校教育も受け、校内で首席を取るほど優秀な生徒になった。卒業後には捕鯨船の副船長にまで上り詰め順風満帆な生活を送っていたが、次第に土佐の家族や日本への想いが募り帰国を決心する。ここでの行動力も凄いのだ。帰国資金を準備するためゴールドラッシュに沸くカリフォルニアへ渡り、金を掘って$600を稼いだ。
帰国するための全ての用意は整ったものの、未だ日本は鎖国中だ。そこで万次郎は日本と諸外国との交易中継地点である琉球に目を付け、琉球経由で日本へ入国することを企てたのだった。
漂流してからすでに10年の月日が過ぎていた。