琉球、江戸、アメリカにまで影響を与えた一人の男「ジョン万次郎」
- 2022/1/12
- 社会
アメリカ帰りの知識は影響力大
その後やっとのことで土佐に戻る願いを叶えた万次郎だが、土佐でも外国語に精通した画家・河田小龍によって半年に及ぶ取り調べが続けられた。河田は万次郎と衣食住を共にしながら日々聞き取り調査を行い、万次郎が得てきたアメリカでの体験や万次郎が語る日本とアメリカの文明の差に驚嘆しつつ、その内容を『漂巽紀略』にまとめ上げた。
この書物が土佐藩に納められると一躍好評を得て、江戸幕府にも献上されることになった。万次郎の名は江戸中でも広く知られるようになり、ペリー来航に揺れる幕府の直参として江戸へ招聘されることになるのだ。
ここで初めて幕府から「中浜」の姓を授かり、士分の位を与えられたのである。
その後土佐藩の藩校で教鞭を執った際には、後に名を馳せる土佐藩士の政治家・後藤象二郎や三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎へも直接指導をしている。
また日米修好通商条約批准書交換の使節団として乗船したアメリカ行きの船の中には勝海舟や福沢諭吉がおり、万次郎は福沢諭吉に今でも英語辞典の権威を持つ『ウェブスター辞典』を入手することを強く勧めたという。
このことが後に福沢諭吉を日本の英語教育第一人者へと押し上げ、慶應義塾を設立し『学問のすゝめ』を執筆していく土台となったと言っても過言ではないだろう。
明治維新の立役者である勝海舟も万次郎の影響を強く受けており、後に勝海舟の弟子となる坂本龍馬は勝および河田小龍からも万次郎仕込みの世界観を学んでいるのだ。それが龍馬を維新へと突き進ませた一つ大きな原動力となったことは言うまでもない。
アメリカ大統領をも虜に
これだけ日本の歴史において計り知れない影響を与えた万次郎だが、実はアメリカにもさらなる興味深いストーリーがあった。
アメリカの第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは、幼少期から万次郎に強い憧れを抱き大統領時に万次郎の家族宛てに手紙を送っている。ルーズベルトといえば歴代大統領の中でも人気が高く、ニューディール政策でアメリカを大恐慌から救った人物である。
話の内容はこうだ。
万次郎をアメリカに連れて帰り我が子のように育てたホイットフィールドは、ルーズベルトの祖父「ワレン・デノラ」の船仲間であり大親友であった。ルーズベルト少年は、祖父から秀才万次郎の話をよく聞かされており、長年万次郎に畏敬の念を抱いていたというのだ。
しかし皮肉なことに、ルーズベルトは世界中を巻き込んだあのおぞましい第二次世界大戦へアメリカを参戦させた大統領であり、アメリカ軍は沖縄を地上戦によって制圧し日本本土も攻撃した。ただ、ルーズベルトは終戦直前の1945年4月に脳卒中で倒れ死去しており、その後副大統領であったトルーマンが大統領に昇格し8月の原爆投下へと進んでいく。
もしもルーズベルトが死去せず終戦まで指揮を執っていたとしたら、最悪原爆投下は間逃れた可能性もあっただろうか。ルーズベルトの幼少期の憧れ「ジョン・マン」が脳裏を掠めた可能性はなかったのだろうか。
土佐の片田舎からアメリカ、琉球、江戸、各地で万次郎が与えてきた影響力は計り知れない。
高知まで続く黒潮の流れる糸満大度海岸には、万次郎の琉球上陸を記念した銅像が建っている。万次郎を目の前に彼の偉大な功績を讃えてみてはいかがだろう。