那覇と小禄に狭まれた「山下町」は歴史の宝庫だった
- 2021/9/13
- 社会
那覇市内を流れる国場川を挟み、南側には奥武山町、山下町、垣花町、住吉町などがある。これら四町は元々「小禄間切」管内であり、1896年に導入された沖縄県特別区制の際に那覇行政区へ編入されたエリアだ。そのためか、この辺りには那覇と小禄双方の雰囲気を併せ持つような感じを受けないだろうか。
今回はその中でも「山下町」にスポットを当てて、興味深い歴史と史跡を紹介していこう。
やたらと見かける外国人名
奥武山近隣で戦後に大規模な埋め立てが行われた後、奥武山公園と陸続きになった元沿岸の町が山下町である。交通情報などでも頻繁に「山下交差点」の名称が出てくるので、県民には親しみのあるエリアだろう。
実は山下町にはとある外国人の名前が付いたお店や施設がやたらと多い。その名前とは、歴史の授業で必ず習う黒船来航の「ペリー提督」である。例えばペリー保育園、ペリー美容室、ペリー内科、ペリー歯科など様々あり、近年まで営業していた人気老舗もち店「ペリーもち」もそうであった。
なぜペリーなのか。
戦後那覇港や小禄が米軍に摂取され、軍用施設として使われた際、隣接する山下町の地名が日本軍司令官であり「マレーの虎」と連合軍から恐れられた「山下奉文(ともゆき)」を連想させるとし、米軍はそのイメージを打ち消すべくこの地を「山下」とは表記させなかった。そこで、沖縄民政府との協議を経て、琉球と縁のあるアメリカ人・ペリーから名前をとって「ペリー区」に変更したという。町全体がペリー区となり、その名称で人々にも親しまれていくようになったため、区内のお店や施設の頭にも「ペリー」が付くようになった。
その後1957年に元の山下町に戻されたものの、ペリーと名の付いたまま営業する店舗、施設がいくつも残ったため、現在でも山下ではペリーを多く見かけるというわけだ。