シルクドゥソレイユからオクラ栽培に大転身 舞台と農家の共通点
- 2021/9/12
- 社会
何も知らなかったダブルダッチで、世界一になるまで
MASAさんがダブルダッチと出会ったのは日体大1年の頃、「乱縄(らんなわ)」というサークルに勧誘されたことがきっかけだった。
「何の気なしに始めたのですが、呼吸を合わせるチームプレイに魅了されたんですよね。個人技だけでなく皆で一緒に成長していくその楽しさにのめり込むうちに3年全国大会で準優勝したんです。でも、その時はまだ趣味程度の気持ちでやっていました」
学生時代の思い出としては満足なまでの結果を得た。しかし、サークルに同郷のメンバーがいて、その彼は在学中からプロチームに所属していた。
「大学4年の夏、免許を取って教員にでもなろうかと思っていた矢先、プロチームに入っていた友人から入団を誘われたんです。質の高い合理的な練習に参加した時に、レベルの違いを見せつけられて、これまでやり切っていなかったことに気付いたんですね」
今まで以上に真摯に向き合うことを決め、就職を捨ててプロとしてやっていくと腹を決めた。
「日本のダブルダッチのスタイルは、テクニカルさをストレートにぶつける世界の競い方とは違って、跳びながら音楽に合わせてダンスしたり奇抜なトリックを多用するなど、創造性があります。一方で、勝つための押さえておきたい定石の技もある。そのあたりの試行錯誤を繰り返していきました」
その結果、2006年のFISAC世界選手権大会で、見事世界一に輝いた。
「実は『一番辞めそう』と言われ続けてきました。でもなぜかそれを言われるたびに、見返してやりたいという気持ちになったんですよね。挑戦してたらいつか壁は超えられるだろうと信じていました」
シルク・ドゥ・ソレイユに合格
世界一の肩書を引っ提げ、プロチームに入ったとしても、すぐにそれだけで生活ができるわけではなかった。
「練習の合間にアルバイトで生活の足しを作って、パフォーマンスの依頼が来たら出向くという日々が続きました。経済的には不安定でしたが、それでも心の支えになったのは『どこに行っても楽しませる自信がある』ということでした」
アルバイト生活が続くこと数年、2009年にはアクロバティックな舞台で名を知られる「マッスルミュージカル」のメンバーに選出され、パフォーマンス1本で食べられるようになった。
しかし、これからどんどん世界で勝負しようと目論んでいた矢先、東日本大震災が発生する。
「エンタメが止まってしまいましたからね。それにダブルダッチの後輩が震災で亡くなってしまったんです。何か自分たちも出来ないかとの思いで、東北の避難所に物資を運びながら体育館の舞台でパフォーマンスをしたら皆が笑顔になってくれました。自分たちの存在意義を実感しました」
そんな中、2011年に東京でシルク・ドゥ・ソレイユのオーディションが開催された。
夢物語だという周囲の雰囲気をよそに見事通過。世界的エンターテインメントの一員となった。
「2500人程のキャパのテントを各地で立てて、年間300公演以上行っていました。世界で約20のショーが同時に行われているんです。100人以上のチームが演者・裏方関係なく寝食を共にする。その一体感は凄かったですね」
ダンサーにジャグラー、一輪車にBMW、身体表現の極致に挑んだ摩訶不思議なアクロバティックの面々の中で、MASAさんも躍動していた。
「パフォーマンスが認められて海外の一線でやれていると、夢が叶った気持ちでした。雰囲気とスケールが大きにも衝撃を受けました」