「隠れキリシタン」が琉球王朝時代にもいた? 「八重山キリシタン事件」とは
- 2021/12/23
- 社会
もうすぐクリスマスだ。沖縄はアメリカによる長い統治時代を経てきた分、クリスマスへの理解や過ごし方が日本本土よりも本場欧米諸国に近い気がする。
しかしアメリカ統治下に入る遥か昔の王朝時代にも、キリスト教に信心し悲劇の殉教を果たした琉球の人物が石垣島にいた。今回は、石垣島の英雄・石垣永将についてお伝えしよう。
琉球の島々にまで及んだ禁教令
「隠れキリシタン」という言葉を耳にしたことはあるだろう。
江戸時代の鎖国政策の中でキリスト教が弾圧され、禁教令が出たにも関わらず密かにキリスト教を信仰し続けた日本人教徒のことだ。自身もキリシタンである天草四郎時貞が率いた1637年の「島原の乱」はあまりにも有名である。
この頃の琉球は、1609年に起こった薩摩侵攻によって実質的に薩摩藩の支配下に置かれ、江戸幕府の政策が島々にまで及ぶようになっていた。禁教令についても然りだ。
ただ、琉球を介する外交貿易は特例で許されており、薩摩と幕府は琉球の交易から莫大な利益を享受していた。
日本との貿易を断たれた西洋諸国の商人や宣教師たちは、日本へ直接乗り入れることが出来なくなったため、特殊な国家体制が組み込まれている琉球に目を付けた。彼らは監視を掻い潜っては琉球経由での日本上陸を試みたという。
琉球で初めての「隠れキリシタン」
そんな時代の最中、一隻のスペイン船が石垣島沖に流れ着いた。乗組員たちは石垣島にて保護され、その中には日本での布教活動経験があるスペイン人神父フアン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダも乗っていた。
保護の指示を出したのは八重山の最高職である宮良親雲上・石垣永将だった。
琉球国内でも王府の許可無しに他国と貿易をすることは許されておらず、外国籍の漂流船などに関しては王府へ報告し船員を送り届けることが義務付けられていた。
しかし石垣永将は幕府や王府の命に反する形で、彼らを島内に歓待し滞在を許可、牛10頭を贈るなどして手厚く世話をしたという。また、一説には永将がこの期間に洗礼を受けキリスト教に帰依していたとも伝わっている。
しかしこの事実が王府の耳に入るや、永将は首里に呼び出され取り調べを受ける事になった。結果キリシタン容疑で有罪を言い渡され渡名喜島への流罪を処される。永将の財産、土地も全て没収され、家族も各々島流しの刑に処された。
だがその後、この事件は薩摩藩の知ることにもなり、薩摩から改めて下された処分は「火刑」。流刑に処されて10年もの月日が経ってからの宣告であった。
永将は抗うことなく殉教として刑を受け入れたと言われ、琉球で初めてキリシタンの疑いで処刑された人物とされている。これが後に「八重山キリシタン事件」と呼ばれることになるキリシタン弾圧事件である。
ルエダ神父も粟国島に流刑となるが、護送中に殺害されたとも伝わる。この事件には謎も多い。果たして石垣永将はルエダ神父と会ってたった数日の間に洗礼を受けクリスチャンとなったのか。なぜ流刑罪の後10年も経ってから薩摩は永将を火刑に処したのか。
単に禁教令を破ったという理由だけでなく、西洋からの宣教によって南海の地「八重山」が西洋列強に取り込まれることを恐れ、見せしめとして処刑された可能性は無いだろうか。特に石垣島には「オヤケアカハチの乱」という前例もある。