「隠れキリシタン」が琉球王朝時代にもいた? 「八重山キリシタン事件」とは
- 2021/12/23
- 社会
紋に秘められた抵抗?
現在、石垣島の新川の海岸付近には石垣永将の一門である「嘉善性一門の墓」があり、ここは永将が洗礼を受けた場所とされている。墓の造りもたいそう立派で、生前に善政をとっていたことから刑を受けてなお人々に慕われる人物だったであろうことが想像できる。
また新川の市街地には永将が火刑に処されたとされる跡地があり、「殉教の地」の「碑」と祠が建っている。
この祠の上部には永将翁の紋である「四つ巴」が掲げられ心の数字を表していると言われるが、「十字」を表しているように見えなくもない。
何かしら抵抗の意思表示だったのだろうか。
禁教制度がクリスマス祝いに
八重山キリシタン事件や島原の乱をきっかけに、江戸幕府は禁教令を強化すべく琉球も含めた日本全土に「宗門改(しゅうもんあらため)」という民衆の信仰を調査する制度を敷いた。
毎年12月、民衆一人一人にキリスト教では無いことを誓約させ帳簿に記していった。加えてその1年に亡くなった人、生まれた子供についての記載、転出や転入についても記載し、現在の戸籍のような役割を果たしていくようになった。これを「宗門改人別帳」といった。
その後、禁教令や宗門改の制度は撤廃されるのだが、檀家制の無かった琉球では引き続き各間切の村人の人数や家族構成を把握するため、この帳簿制度を独自の「キリシタン帳」として継続利用してきた。
そして近代沖縄となった今でも地域によってはその慣わしが残り、12月25日のクリスマスの日にその1年の間に生まれた赤ちゃんを地域住民が集まって祝う「チリタンチョウ」や「切支丹」が行われている。
戦後、沖縄にはアメリカ軍が駐留しキリスト教の布教も他府県より活発に行われ教徒も多いという。県民はもちろんのこと、県内のクリスチャンはじめ、在沖のクリスチャンにも石垣永将という人物を知ってもらい、より深い双方の理解の架け橋になってもらえたらと思う。