コザ暴動は「反米暴動」だったのか② 判決への非難一色
- 2021/9/12
- 社会
今から51年前の1970年、米国の施政権下にあった沖縄で起きたコザ暴動は、基地の街であったコザで多くの米軍車両などが焼き討ちされた事件である。背景には、米軍に対する住民の積もり積もった不満があったとされるが、果たしてこの事件は「反米暴動」だったのか。当時、琉球検察の検事として事件の捜査にも関わった高江洲歳満氏の論考の第二回目。前回の第一回目はこちら(https://hubokinawa.jp/archives/9686)。
糸満での事件に無罪判決
1970年12月7日に開かれた軍法会議で、糸満での無謀運転致死事件の被告に無罪判決が出ると、沖縄では大きく反発の声が上がった。当時、琉球を統治した米国民政府は琉球新報の質問状に、以下のように回答している。
<米国でも交通事故によって人を死傷させた事件はしばしば無罪となる。それは過失は処罰しない原則があるからだ。日本でも過失は処罰しないと聞いている。ただ日本には業務上過失致死罪の規定があるから、過失犯による交通事故が処罰されるのだと承知している>
今回の裁判は無謀運転が訴因で、過失運転は訴因ではなかった。訴因は検察官の事実主張だから無謀運転が審理の対象だった。陪審は、被告人は無謀運転してなかったと判断し、無罪の評決をした。
判決に納得できない遺族
裁判は司令官が約束した通り公開で行われた。ただ軍法会議は外国人である琉球人の傍聴を制限しただけであった。無罪ではあったが、民事ではアメリカでも過失によって他人の権利を侵害した場合、損害賠償を認める法がある。被害者の遺族が賠償金を受け取る道は残されている。
過失運転でなく無謀運転だったかどうかが問われ、その点では無罪だったと説明しているわけだが、遺族らはこれに納得できるような状況ではなかった。
「アメリカに法はないのか」「沖縄人を虫けらと思っているのだ、その証拠に無罪の理由を明らかにしていない」
遺族はそう怒った。彼らは事件翌日の県紙朝刊に掲載された、「米兵が時速15マイル地点を約60マイルの猛スピードで約60度のカーブ地点にさしかかりハンドルを切りそこねて道路右側に駐車していた車両と接触、その後金城トヨさんを撥ねた上、近くの鉄柱に車体前部を激突させ停まった。金城さんは病院に運ばれる途中死亡した」との糸満警察署の発表を信じていたのである。しかも、「米兵は事故現場前ジグザグ運転をしており、途中3か所でも通行人を撥ねそうだった、酒気帯び運転らしい」との記事もあって、有罪間違いなしと思っていただけに、判決は彼らにとって全く予想外のものだった。
判決は不当との認識広がる
糸満町(当時)は、判決は非常識と言って公正な裁判を要求する構えを示し、町議会で決議を得て行動すると決めた。米兵凶悪犯罪糾弾協議会(以下、協議会)も判決を非難し、町内に「人権を踏みにじる欺瞞裁判を粉砕しよう」等のポスターを貼り、町と共に抗議集会を行うと決めた。
琉球政府も知念副主席が、「今度の加害者は酒を飲んでいたと聞いている。交通事故は人の業では防げない時にしか無罪となり得ない、常識では考えられない」と発言し、琉球警察本部では大城宗正交通部長が、「人をひき殺して無罪とはどんな裁判をしたのか、人道的にも考えられない、運転手はつねに道路の状況に合わせて運転する義務がある、事故は道路端で起きていて運転手の過失はあるのに無罪とは大変な問題だ」とコメントした。