西に名護なら東に「久志」! 歴史的魅力の濃厚さを味わう

 
久志区公民館前にあるガジュマル

 名護市の東海岸には支所を伴う「久志地域」がある。久志はもともと独立した1つの行政区「久志間切」であり、久志村となった後に合併を経て現在は名護市の一地域となった。久志村になった1908年当時は現在の東村まで含む大きなエリアで、1つの行政区としてはあまりに広範囲過ぎる上に道路整備も行き届いておらず、村民たちの生活は不便を極めたという。

 そんな状況を受けて、1923年に村北部の6集落が分村し誕生したのが東村だった。

戦後の東海岸は今の名護より人が多かった!

 1945年の沖縄戦終戦直後、北部東海岸にはいくつもの難民収容所が作られ、戦火で家や家族を失った多くの難民が中南部や北部西エリア、伊江島などから送られてきた。

 そのため付近の人口が一気に膨れ上がり、一時的ではあるものの久志エリアに人口3万5千人を超える大浦崎市(後に久志市)、3万人を超える瀬嵩市が設置された。なんと東海岸だけで現在の名護市よりも多い人口になっていたのだ。

 その後、難民の帰村が認められるとともに人口は急速に減少し、1947年には久志市と瀬嵩市が合併して元の久志村に戻った。また1970年には旧名護町、屋部村、羽地村、屋我地村と合併し現在の大きな名護市となった。隣の宜野座村との境に位置する久志エリア最南端は「久志字久志」という集落で、地元では昔から大きな久志と区別して「小さな久志」の愛称を込め「久志グヮー」と呼んでいるようだ。

 久志という漢字は実は当て字のようで、元々はその土地が海に面していくつも入り組んでおり「櫛」のように見えるから、「クシ」は方言で「背」を意味するので「海の背」ではないか西側の名護からみて「背」の「クシ」ではないかなど、由来には諸説あるようだ。

 また、元々は久志間切の中心だった久志グヮーに久志の番所(現在の役所)が置かれていたのだが、ある理由をきっかけに瀬嵩へ移り、現在も久志支所、久志郵便局などは字久志ではなく字瀬嵩にある(久志小学校も久志にあったが、現在は久志小中一貫校緑風学園として汀間に移転した)。

久志村なのに瀬嵩が中心?

 琉球王朝時代、王府からの文書や伝達は各間切を経由して送られていた。首里から北上して行く場合には西ルートと東ルートがあり、久志間切までは東ルートを取り西原、越来、美里、金武間切などを経由し届けられていた。

 しかし久志以北は山々が険し過ぎて、一旦南に引き返してから西の名護まで横断、名護番所を経由してから更なる北上をしていたという。

 そうなると単に無駄足を踏むだけでなく、名護の番所では西ルートからも東ルートからも人の出入りがあり多忙を極める。そこで王府は久志―羽地間の山道を新たに整備し、羽地まで直接横断できるようにした。この横断道の入り口が瀬嵩にあったため、番所も久志より交通上便利のいい瀬嵩へと移ることになったというわけだ。

現在の道には「沈下橋」が架かっている
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