琉球と薩摩思惑が交錯 アラハビーチに横たわる英国船秘話

 

 北谷町アラハビーチにある帆船を模したリアルな遊具が子どもたちに人気だ。この船は、琉球王朝時代に北谷沖で座礁し沈んでしまったイギリス船「インディアン・オーク号」がモデルとなっている。

今回はその裏話を紹介しよう。

敵国の船員を救った琉球

 インディアン・オーク号が東シナ海を航海中、台風の影響を受け北谷沖に座礁したのは1840年のことだ。その頃の琉球は事実上薩摩藩の付庸国となりながら、表向きは独立国家としての体裁を保ち「清」(現在の中国)からの冊封も受け続けるという、絶妙な外交バランスの中にあった。

 同時期の世界に目を向けてみると、西洋列強がアジア・アフリカに向け動きを活発にし、イギリスがインドで製造した大量のアヘン(ケシ・麻薬)を清に密貿易したことで「アヘン戦争」が勃発し、両国が激しく対立していた年代だ。このアヘン戦争で敗戦国となった清から「香港島」が割譲され、香港は1997年までイギリス領となっていた。

 こうした激動の時代背景の中、清の冊封国である琉球の北谷沖でイギリス船が座礁したのである。外交的な状況を踏まえて考えれば敵国の船なので、すぐさま捕えて刑に処すと考えるのが妥当だろう。しかし北谷の民は台風の荒波にも関わらず、船から船員67名を助け出し保護した。さらに琉球王府は45日もの間、彼らに衣食住を与え手厚くもてなしたのだ
 最終的に王府が読谷の渡具知で180トンほどの船を造船させ、彼らに与えて無事送り返したという。救出されたイギリス人たちは「琉球の人は良きサマリヤ人のようだ」と称賛した。

北谷の白比川沖、現在のアラハビーチ沖に座礁した

 この経緯は当時の船員たちによって海軍記として記され、今でも大英博物館に所蔵されている。救出から160年後の「2000年 九州・沖縄サミット」ではイギリスのブレア首相が北谷町を表敬訪問し、それがきっかけとなって北谷町とイギリスのディーン・マグナ・スクールとの間では学生同士の国際交流が毎年行われている。

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