琉球と薩摩思惑が交錯 アラハビーチに横たわる英国船秘話
- 2021/11/4
- 社会
ニライカナイ信仰の考え方
そもそも古来より琉球には「ニライカナイ信仰」が根付いており、「海の彼方からやってくるものには福があり、受け入れて手厚くもてなす」という考え方があった。現代でも沖縄県民の根底には、外からの来訪者をもてなすという精神はしっかり受け継がれていると感じる。
しかし先の事件は時代が時代だ。座礁船がイギリスの船と分かった時点で、宗主国「清」の敵国であり難破船救助は公にはご法度だったと容易に考えられる。さらに日本も厳格な鎖国政策時代だ。幕府から異国船を見つけ次第攻撃せよと命じられている中、琉球に派遣されていた薩摩の役人も異国船には目を光らせていたことだろう。
ではなぜ、北谷の民と琉球王府は座礁したイギリス船を救出し、彼らをここまで手厚くもてなしたのだろうか。なぜ薩摩の役人は幕府へ座礁船の事を報告しなかったのだろうか。
見ぬが仏、聞かぬが花か
こうは考えられないだろうか?
琉球にとって、清国への忠誠を保つ上でもイギリス船は取り締まる対象のはずだが、ここで万が一争いが起き事を荒立ててしまうと、日本を含む三大大国間の国際紛争に発展してしまう可能性がある。
琉球としては、そこに巻き込まれてしまうと不利益を被る。そして実は薩摩藩にとっても、琉球は独立国家である方が貿易利潤を生むためには都合が良かったし、他藩に対しても一国を従属させているという権威付けが出来ていた。
こうした微妙なバランスで成り立っていた体制を維持したいという琉球側、薩摩側の思惑が働いた可能性が高い。
それに加えて、もしかすると島国ウチナーンチュの「事を荒立てず、うまく強かに乗り越えよう」という精神が長い時を経て薩摩役人にも伝播し、彼らも「見ぬが仏、聞かぬが花」を選択したのではないかとも思えるのだ。
こうした漂流事件は当時いくつもあったようで、その積み重ねが西洋人に琉球を「信じられないほどホスピタリティに溢れた南国の楽園!」とイメージさせたのかもしれない。
琉球の人たちが手厚いもてなしに対する謝礼を決して受け取ろうとしなかったことが現在まで伝わっているのも、受け取ることで宗主国以外と国交を結んだと誤解されないためだったとも考えられる。また、そこには島国ゆえのホスピタリティもあったのだろう。
次回アラハビーチでインディアン・オーク号を見かけた際には、この事件を思い出し、当時の状況や先人たちの外交的な判断にも想いを馳せて欲しい。