【歴代知事②】「沖縄の産業まつり」を創設 ”土着”の政治家、2代目・平良幸市

 
ヘリコプターで西原村を視察するキャラウェイ高等弁務官(左)と、同村出身で当時琉球立法院議員の平良幸市氏=西原村、1962年10月12日(沖縄県公文書館所蔵)

 今年で本土復帰から50年の節目を迎える沖縄。9月11日には14回目の県知事選挙が行われる。この半世紀で沖縄の舵取り役を務めたのは、屋良朝苗、平良幸市、西銘順治、大田昌秀、稲嶺惠一、仲井眞弘多、翁長雄志、玉城デニーの8人。いずれも広大な米軍基地に起因した事件・事故や、県外に比べ独特な課題を抱える島しょ県ならではの経済振興など、様々な困難に直面しながら県政運営に奔走してきた。歴代知事(※現職の玉城氏を除く)の功績や人柄を振り返る。

 5月15日に宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで開かれた沖縄復帰50周年記念式典後、HUB沖縄では沖縄初の公選知事である初代・屋良朝苗の歩みを紹介した(https://hubokinawa.jp/archives/15980)ため、第2回目となる今回は「革新県政の継承発展」を掲げて屋良からバトンを受け継いだ平良幸市を取り上げる。

 平良は1期目途中で病に倒れ、在任期間は約2年5カ月(1976年6月25日~78年11月23日)。復帰後の歴代知事の中で最も短いが、今となっては県下最大のイベントの一つにまで成長した「沖縄の産業まつり」の創設や米軍基地の円滑な跡地利用に向けた「軍用地転用特措法案要綱」をまとめるなど、沖縄の特色を生かした経済発展や地方自治の確立に重点を置き、「土着の政治家」と評された。

戦後、西原村長に就く 社大党「育ての親」に

 1909年7月23日、父・幸栄と母・カナの間に生まれた3人兄弟の長男として、西原村我謝で誕生した(※参考「土着の人 平良幸市小伝」平良幸市回想録刊行委員会編)。沖縄県師範学校卒業後の1928年から複数の小学校で教壇に立ち、戦時中は応召兵として食料や弾丸運びをさせられた。地上戦が激しさを増すと、妻子を久志村(現・名護市)に疎開させ、自身は一度西原村に戻り、その後南部に避難した。1953年11月に発刊された「立法院議会時報」の創刊号に掲載された手記には、その後の出来事をこう記している。

 「2カ月半、南部戦線をさ迷い、『与那原の浜さえ無事通過したら、海岸伝いに国頭に行けるそうだ。国頭は平静そうだ』とのデマを信じて、それではと五名の少年達と共に、まず魔文仁村大渡浜に出るべく、真壁原頭をほふく前進。姿勢を高くすれば小弾銃が飛んでくるからである。(中略)連れの少年達は?と後を振り向いた時は、三名の米兵が銃口を向けて近寄って来た。万事休す!戦は完全に負けたのである」

 米軍の捕虜となり、終戦後は収容所を転々とした。1946年に沖縄民政府の文教部に配属されて学校建設に傾注し、翌47年に西原村長に任命された。それを機に政治家に転身し、沖縄民政議員、沖縄群島議会議員を歴任した。

 戦後も米軍支配が続く中、沖縄では当時、自治権の回復を求める機運が高まっていた。それを受け、1947年に戦後沖縄初の政党となる沖縄民主同盟が立ち上がり、直後に沖縄人民党も結成。50年には、後に沖縄における祖国復帰運動や反戦平和活動の中心的役割を担う沖縄社会大衆党(以下、社大党)も結党し、平良は副書記長に就いた。後に第3代、第5代委員長も務めた。

 1972年、沖縄の日本復帰に伴い、社大党が中央政党に移行するか、存続するかを迫られた際には、当時書記長として「県民が望んだ真の復帰を勝ち取るまでは存続する」との強い決意を示し、存続への道筋を付けた。広大な米軍基地を残したままでの復帰は多くの課題を残し、「本土の政党に包含されることになれば、沖縄問題を埋没させる結果になります」との言葉も残す。今年で結党72年を迎える社大党にとって、平良は「育ての親」と言われる。

米軍批判もキャラウェイに印象残す

平良幸市氏について思い出を振り返る平良亀之助さん=8月、那覇市内

 1952年に琉球政府が創立した後は、沖縄が日本に復帰するまで立法院議員を8期20年に渡り務めた。痩躯に加え、柔和な顔つきではあるが、米国支配下における様々な不条理を正すという情熱を内包し、議会でも際立った存在感を発揮していたという。沖縄の復帰前に琉球新報で記者を務め、後に琉球政府や沖縄県庁で働いて平良と親交を深めたという平良亀之助さん(85)はこう振り返る。

 「大声を出す訳ではないけど、問い掛けるように話すから、聞いてる方は話に飲み込まれていくような感覚になるんだよ。だから議会の質問でも、右、左(保守、革新)関係なくほとんど野次が飛んだのは見たことない。内容も本当に筋が通っていた」

 1961年には、米国の招待という形で沖縄を視察した国会議員団との会合で「何のかんばせ(顔)あって沖縄県民に相まみえんや。こういったお気持ちから、恐らく(議員団は)おいでになるまい、こういった声もあったのであります」と痛烈な言葉で議員団を批判。圧政を強いる米国だけでなく、沖縄の祖国復帰を主導しない日本政府に対しても強い不満を示していた。

当時立法院議員の平良幸市氏(左)と握手を交わすキャラウェイ高等弁務官=1962年10月12日、西原村(沖縄県公文書館所蔵)

 一貫して米国支配への抵抗を続ける姿は、時の権力者にも強烈な印象を残したようだ。「沖縄の自治は神話である」と発言し、その強権ぶりで「キャラウェイ旋風」と恐れられたポール・W・キャラウェイ第3代高等弁務官は「ミスタータイラは、1ダースのミスター・オータの価値がある」(「世替わり裏面史」琉球新報社編)との言葉を残す。ミスター・オータとは、キャラウェイが在任中に第3代琉球行政主席を務めた大田政作である。

 キャラウェイは平良について「彼はアメリカについて思いやりのある言葉は一つもかけてくれなかった」と述懐する一方で、「それで、私は彼に注目した。最初から彼を気に入った。弁舌の名手で、心を打つような演説をした」と評した。平良を誘い、平良の故郷・西原村にある旧日本軍の飛行場跡をヘリコプターで視察したこともあったという。

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