【歴代知事②】「沖縄の産業まつり」を創設 ”土着”の政治家、2代目・平良幸市

 

志半ばで病に倒れる 発語苦しみ「歯がゆい思い」

復帰記念植樹祭で挨拶する当時県議会議長だった平良幸市氏=1972年11月26日、糸満市摩文仁丘(沖縄県公文書館所蔵)

 その他、軍用地の整理縮小や跡地利用のための「軍用地転用特措法案要綱」の策定、様々な分野で沖縄の発展や福祉の増進などに貢献した人を表彰する「県功労賞」の制定、米統治下で「右側通行」だった交通ルールを「左側通行」に変更する「交通方法変更問題」に奔走するなど、戦後・復帰処理や県民の自尊心向上に心血を注いだ。

 ただ政府が主導した交通方法の変更については、補償や施設整備などの点から多くの課題や県民の反発があり、平良も「沖縄は戦後30年近く異民族支配下に置かれ、累積した諸問題が複雑に絡み合って現在まできている。これらの問題は本土の基準、考え方では解決できない」と批判。国との折衝で出張が増え、多忙を極めた。

交通ルールが変更になったことを記念して建立された石垣島に「730記念碑」

 いよいよ交通方法が変更される歴史的な日となる、いわゆる「730(ナナサンマル」の1978年7月30日を目前に悲劇が襲う。同21日、上京中に倒れ、近隣の病院へ。診断の結果、脳血栓と症状は重く、昏睡状態に陥った。

 意識を取り戻したのは3日後。書籍「土着の人」に妻・梅子が寄せた寄稿文には、当時の様子がこう記されている。

 「意識を取り戻したのは3日目の午後だった。病床でしきりに早口で何やら言っている。が、何を言っているのか聞き取れない。耳元で大きな声で『7・30の事ですか』と聞くと、幸市はこくりとうなづいたのである。とっさに『7・30は滞りなく済みましたよ』と嘘をついた。それを聞くと幸市は大きくうなづき、安心したとみえてすやすや寝入った」(要約)

 そのまま入院を余儀なくされた平良。体力は回復に向かったが、知事の激務に耐え切れる程には至らず、1978年11月23日に職を辞した。この瞬間、激動の時代に沖縄政治の中枢に籍を置き続けた約30年の平良の公人人生は幕を閉じた。

 半年間の入院後、西原の自宅に戻って療養を続けたが、右半身のマヒと言語障害が残り、自らの意思を伝えることが困難な状態に陥った。当時、本人に面会したという平良亀之助さんは「僕の言ってる事は耳に入るようだったけど、本人は言語が出せなくなってしまってね。あの弁舌が聞けなくなってしまった。本人も本当に歯がゆい思いをされたと思う」と残念そうに当時を振り返り、本人の無念を推測する。

 県外のリハビリ施設に入院したり、リハビリ器具を購入したりして言語の回復に執念を燃やしたが、民衆や他議員らを魅了した”幸市節”は最後まで回復を見ず、1982年3月5日、72歳で生涯を閉じた。

 それから40年。短い在任期間ではあったが、平良が基地問題や経済振興、生活課題において取り組んだ項目は数多い。その功績は、確実に今の沖縄社会に息付いている。

参考書籍「土着の人〜平良幸市小伝〜」(編集・平良幸市回想録刊行委員会)

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長嶺 真輝

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ながみね・まき。沖縄拠点のスポーツライター、フリーランス記者。
2022年3月まで沖縄地元紙で10年間、新聞記者を経験。
Bリーグ琉球ゴールデンキングスや東京五輪を担当。金融や農林水産、市町村の地域話題も取材。

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