大謝名が生んだ琉球偉人・察度と黄金宮の謎
- 2021/4/1
- 社会
宜野湾市大謝名は琉球史に置いて最も重要な人物の一人である「察度王」の出身地である。彼が王位にまで上り詰めることができたのは、大謝名の立地も大きく関与している。未だ世間ではあまり知られていないその史実を、大謝名の今後の町おこしの可能性に期待も込めてお伝えしていこう。
察度と天女伝説
察度は奥間大親という農夫と天女との子であるという伝説があり、森川公園の森の川はその伝説の舞台、天女が水浴びをしていたと言われる泉だ。
その昔、奥間大親が水浴びをしている天女を見つけ、とっさに羽衣を隠してしまう。困った天女に、一緒に探してあげるから見つかるまで家に来なさいと連れて帰る。そこから二人は夫婦の仲になり、娘と息子二人の子供を授かった。
子供が羽衣のありかをほのめかす歌を歌うと、それに気付いた天女は羽衣を探し出し、後ろ髪を引かれながらも我が子を残し天に帰っていくという話だ。宜野湾最大のお祭り、はごろも祭りはこの羽衣伝説が由来となっている。その天女の息子こそが「謝名ムイ」こと後の察度であった。
遠く勝連按司の娘が婿探しをしている話を聞きつけた察度は、周りに身分が違いすぎると止められながらも、娘を大謝名の高台にある自分の家に連れて帰った。慎ましい生活の中で、突如娘が家前の畑に埋まる光り輝く何かを見つける。それが金塊であったというのだ。大和から来た商人たちが持ち込んだ鉄とその金を交換し、鉄で農具を大量に作り皆に分け与える。すると豊作が続き、次第に人望を高め遂には王になるという話だ。
大謝名の高台には「黄金宮」という史跡があり、そこが察度の住んでいた居住地で、畑から出てきた金塊を元に富を蓄え建てた楼閣の跡だと言われている。