かつて琉球の人々が通った「長虹堤」を歩いてみる
- 2021/8/10
- 社会
那覇にはかつて、海の上に敷かれた海中道路があったことをご存知だろうか。今はその姿を見ることはできないが、僅かに残る道跡を訪ね歩いてみよう。
浮島那覇と本島を結んだ海中道路
那覇はもともと浮島という離れ島で、本島との往来には海を渡らなければならなかった。中国からの冊封使も浮島にあった天使館に滞在していたため、海を渡って首里まで通っていた。島から陸まで何十叟もの船を並べ、その上を歩いて行き来をしていたとも言われる。
さすがにこのままでは忍びないと、第一尚氏第5代国王尚金福(しょうきんぷく)は、本島の安里から浮島までを繋げる約1kmに及ぶ海中道路を整備させた。指揮を任されたのは、龍潭を造成したことで知られる国相・懐機(かいき)だった。
この海中道路こそ、戦前まで姿を残していた「長虹堤(ちょうこうてい)」である。
幾人もの労働人民が命を落とし、神への祈願も頻繁に行われた、極度の難工事だったという。それだけに、道の完成後には感謝の意を認め、浮島側の終点地(現在の松山付近)に長寿宮と長寿寺を建てた。この長寿宮が後の浮島神社となる。現在でも松山のナイトクラブ街の一角には、長寿之宮という石碑が建つ不思議な空間があり、長寿宮の跡地だと思われる。
長虹堤が敷かれたことで、浮島には久米村だけでなく日本人街も出来上がり、どんどんと栄えていくことになる。ただ、長虹堤という名称は、浮道が通った際に付いた名ではなく、後に冊封使節団の一人であった胡靖(こせい)が「まるで長い虹のような堤だ」と例えたことからそう呼ばれるようになった。
現在は道周辺も埋め立てられて陸地化し、当時の姿を見ることはできない。だが、実際に現場を歩くと僅かな名残が顔を出す。