かつて琉球の人々が通った「長虹堤」を歩いてみる

 

 那覇にはかつて、海の上に敷かれた海中道路があったことをご存知だろうか。今はその姿を見ることはできないが、僅かに残る道跡を訪ね歩いてみよう。

浮島那覇と本島を結んだ海中道路

 那覇はもともと浮島という離れ島で、本島との往来には海を渡らなければならなかった。中国からの冊封使も浮島にあった天使館に滞在していたため、海を渡って首里まで通っていた。島から陸まで何十叟もの船を並べ、その上を歩いて行き来をしていたとも言われる。

 さすがにこのままでは忍びないと、第一尚氏第5代国王尚金福(しょうきんぷく)は、本島の安里から浮島までを繋げる約1kmに及ぶ海中道路を整備させた。指揮を任されたのは、龍潭を造成したことで知られる国相・懐機(かいき)だった。
 この海中道路こそ、戦前まで姿を残していた「長虹堤(ちょうこうてい)」である。

 幾人もの労働人民が命を落とし、神への祈願も頻繁に行われた、極度の難工事だったという。それだけに、道の完成後には感謝の意を認め、浮島側の終点地(現在の松山付近)に長寿宮と長寿寺を建てた。この長寿宮が後の浮島神社となる。現在でも松山のナイトクラブ街の一角には、長寿之宮という石碑が建つ不思議な空間があり、長寿宮の跡地だと思われる。

沖縄一の繁華街にたたずむ「長寿の宮」

 長虹堤が敷かれたことで、浮島には久米村だけでなく日本人街も出来上がり、どんどんと栄えていくことになる。ただ、長虹堤という名称は、浮道が通った際に付いた名ではなく、後に冊封使節団の一人であった胡靖(こせい)が「まるで長い虹のような堤だ」と例えたことからそう呼ばれるようになった。

 現在は道周辺も埋め立てられて陸地化し、当時の姿を見ることはできない。だが、実際に現場を歩くと僅かな名残が顔を出す。

Print Friendly, PDF & Email
次ページ:

1

2 3

関連記事

おすすめ記事

  1.  サッカーJ3のFC琉球が、第2次金鍾成(キン・ジョンソン)監督体制下の初陣を白星で飾った…
  2. 今季から琉球ゴールデンキングスに加入したアレックス・カーク(左から2人目)やヴィック・ローら=16…
  3.  FC琉球の監督が、また代わった。  サッカーJ3で20チーム中18位に沈む琉球は1…
  4. 戦前に首里城正殿前に設置されていたバスケットボールゴールを再現した首里高校の生徒ら=8月27日、那…
  5.  8月12日、浦添市のアイム・ユニバースてだこホール市民交流室は熱気が渦巻いていた。ステー…
宮古毎日新聞

特集記事

  1. 再びFC琉球の指揮を執ることになり、トレーニング中に選手たちに指示を送る金鍾成監督=19日、東風平…
  2. ヴィック・ロー(中央)の入団会見で記念撮影に応じる琉球ゴールデンキングスの(左から)安永淳一GM、…
  3. 沖縄県庁  沖縄県は、地域の緊張を和らげようと、4月から「地域外交室」を設置し、照屋義実副知…
ページ上部へ戻る ページ下部へ移動 ホームへ戻る 前の記事へ 次の記事へ