大謝名が生んだ琉球偉人・察度と黄金宮の謎
- 2021/4/1
- 社会
断崖絶壁で貿易していた?
しかし実際に黄金宮を訪れてみると、え?ここが?という拍子抜けと、何よりこんなひっそりとした高台、崖上でどのように貿易をしていたのだろうという疑問を覚える。
実際貿易を行っていたと思われる牧港までは、直線距離でも結構な距離がある。さらに目の前は断崖絶壁、その下を比屋良川が流れている。別名宇地泊川とも呼ばれる浦添と宜野湾の間を流れる川だ。当時の人々は、この川を渡るためにも地形的な理由から黄金宮の前を通る必要があり、察度はそこでも色々な情報収拾や物々交換をしていたとも言われている。
この崖下を渡る? あまりに危険ではないか? というのが長らくの疑問だった。
しかしその謎がようやく解けた!
察度の生きた時代は今から約700年以上も前だ。当時、実は黄金宮手前までが海、入江であったのだ。
現在の牧港の大半、A&W牧港店やマチナトボール、牧港団地や大謝名小学校あたりまでも大きな入江だったということが分かっているという。現代でもその名残を見て取れる場所がいくつかある。
かつて海であった名残の数々
まず、現場を見るとはっきり分かるが、大謝名小学校はすごく窪んだ土地に建てられている。道路上から見下ろすような造りなのだ。実はこの高低差こそ、昔はそこが海だったという名残の一つなのである。
さらに、大謝名といえば小学校側の「メーヌカー」という湧き水が有名だが、そのすぐ近くには別の「ヤマトガー」という、日本の船がそこに船を横付けして水を補給していたと言われる湧き水跡もある。これも当時そこが海であった名残の一つ。