元祖・空手出版ジャーナリスト 仲宗根源和 沖縄空手の世界⑦
- 2020/12/5
- エンタメ・スポーツ
昭和7年、那覇市昭和会館で空手演武会が行われました。本部朝基、喜屋武朝徳、知花朝信、城間真繁、大城朝恕、宮城嗣吉(沖縄映画、沖縄芝居の原点であり沖映社長)らが参加。この演武会で空手家たちと知遇を得ます。
「空手研究」を発行する昭和9年には東京台東区で空手研究社興武館として出版業を立ち上げましたが、ここでは空手衣の販売も行っていたことは意外と知られていません。昭和11年10月25日、「琉球新報」紙上での空手座談会に空手研究家として参加。場所も因縁ある那覇市昭和会館で行われました。
この座談会で仲宗根源和は司会進行役を務めていましたが、積極的に自らの意見を述べています。本土の東京では既に空手は一般的になっている現状を伝えて、「空手は体育であり武道であり精神修養が目的とするゆえ空手道である」と熱く発言。「本土では若い人たちが空手道として取り組んでおり普及している。沖縄では先駆けて学校体育で取り組んでいるが本土と比べると唐手が普及しているように見えない。唐手の普及発展を考えて空手という名称に改称してはどうか」と仲宗根源和が提案する流れとなりました。
唐手から空手という表記が定まったのは、空手の大家達に空手研究家の仲宗根源和が堂々と意見したことが大きいと思われます。尚、この座談会には主催した琉球新報社主と記者、行政から学務部、県立図書館、司令部、県警務課、保安課、体育課、作家も来賓として立合いしていました。
昭和12年3月の沖縄県空手道振興協会設立にも参加して、すべての流派に共通する空手道基本型十二段が制定されることになります。空手の出版活動を一段落した後、政治家として沖縄県議会議員となり政治界で活動を始め、戦後は政治活動に加えパイン工場の事業などに従事しますが、 昭和初期の頃から仲宗根はこれまで情熱的に空手界に関わっていた空手から身を引いてしまいます。
終戦前後には本部朝基、喜屋武朝徳、新里仁安、花城長茂、徳田安文、義村朝義、知念三良、金城松といった大家が相次いで亡くなっています。社会情勢の影響もあり仲宗根源和は空手に冷めてしまったのでしょうか。