95%が米軍の土地だった「読谷村」 戦跡から浮かぶ戦後の歩み

 
左中央の囲われた敷地がモーガンマナー。右側の橋が比謝橋だ (1977 *国土地理院写真)

戦争に翻弄された古堅

 読谷村字古堅にも、かつて米軍人家族が住むハウジングエリア「Morgan Manor(モーガン・マナー)」があった。

 国道58号線を北上し、嘉手納町と読谷村の境になる比謝橋を越えると大湾交差点に差し掛かる。交差点を左に曲がり道なりに1kmほど進むとイオンタウン読谷にたどり着くが、その途中左手に古堅交番がある。交番から比謝川ガス会社に向かって南側一帯にMorgan Manor が広がっていた。交番あたりが入り口だったと思っていいだろう。

 1977年に返還され現在は閑静な住宅地になっているので、かつての様相を思わせるものは少ない。しかしエリア内には今でも「モーガンマンション」や「モーガン美容室」といったモーガンの名を残した建物がいくつか残っている。

今でも「モーガン」という言葉が入った施設名が残る古堅地区

 さらに戦前まで遡るとこの一帯には古堅国民学校(小学校)があり、戦争によって学校が破壊されその跡地にMorgan Manor が建った。そのため戦後の古堅小学校は古堅地区ではなく楚辺に開校し、古堅南小学校が後に分離という形で古堅に開校している。

 古堅国民学校跡地の一角には、戦後発掘された当時の校門を設置した史跡広場があり、その門の内側には激しい戦火を生き抜いた大きなデイゴの木が今も立派にそびえ立っている。

戦前からこの地に立ち続けるデイゴの木

 米軍が村地の95%を接収した読谷山村は他の村に比べて帰村が遅れたため、家も身寄りもなく路頭に迷い込み周りから厄介者扱いされたり、中には生き伸びるために悪事を働き投獄される者も少なくなかったという。そのため、次第に彼らのような者が「ユンタンジャー」と侮蔑の意味を持って呼ばれるようになったと読谷村誌は伝えている。

 村の未来を案じた戦後初の知花英康読谷村長や村議は、1946年に帰村が認められると村民の人心を一新するため、時の志喜屋孝信知事に村名の改称申請を行い「読谷山村」は「読谷村」となったのである。

 今では癒しを感じる長閑な街並みの読谷村だが、戦争に翻弄され続けた歴史を忘れてはいけない。

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