95%が米軍の土地だった「読谷村」 戦跡から浮かぶ戦後の歩み
- 2022/6/22
- 社会
元々は「読谷山村」だった読谷村。村名が改称されたのは戦後のことであり、そこには沖縄戦も関わっていた。
村のほとんどの土地を米軍に接収された読谷村が戦後どのような復興を遂げてきたのか、村内に残るわずかな戦跡を訪ね歩きながら考えてみたい。
米軍の要塞地と化した読谷
太平洋戦争末期の沖縄戦において米軍は、かつて薩摩軍が琉球侵攻で攻め込んだルートと同じ読谷の比謝川河口付近から上陸した。
すでに地上持久戦に持ち込む戦略に切り替えていた日本軍は、米軍の上陸を阻止することなく南部守備に高じていた。そのため米軍は難なく無血上陸を果たし、その日のうちに日本軍の北飛行場(後の米軍読谷補助飛行場)を占領、読谷に本陣営を構えた。
ここから激しい沖縄本島の地上戦が始まるのだが、米軍上陸地の読谷は地の利から物資集積場として重要なエリアになり、村地の95%が米軍によって占領された。北飛行場は巨大な読谷補助飛行場へと拡張され、残波岬へと続く西海岸には新たにボーローポイント飛行場が建設された。
戦後を迎えてもなおボーローエリアには「ナイキ・ハーキュリューズ基地」、核弾頭を搭載したミサイルが配備された「メースB基地」、波平には象の檻と呼ばれた「楚辺通信施設(キャンプ・ハンザ)」、楚辺に「トリイステーション」、そして今や世界遺産にも登録されている座喜味城跡内にも一時レーダー基地が置かれた。
今となってはサトウキビ畑が広がる長閑なイメージの村だが、戦後しばらくは米軍施設で埋め尽くされるような軍事要塞エリアだった。現在はようやく村全体の約半分の土地が返還されてはいるものの、未だ45%を米軍基地が占めている。返還された土地から当時の様子を探り出すことは難しくなっているが、僅かながら名残を見つけ出すことができる。
滑走路跡と巨大サークル
現在の読谷村役場や村陸上競技場などがある一帯は不思議なほど開放感があり、周りには幅広い直線道路が縦横に伸びている。特に南北を結ぶ道路は、沖縄では珍しく水平線が見えそうなくらいに真っ直ぐだ。この道はかつての読谷補助飛行場滑走路跡を利用して敷かれており、現在も滑走路跡を見ることができる。
かつて「象の檻」と呼ばれた巨大サークル状の楚辺通信所跡はこれから整備事業が進められるようで、だだっ広い空き地となった現場にかつての面影は全くない。しかし跡地前を走る道路には明らかに不自然な角度のコーナーがあり、新しく道を付け足したことが分かる。コーナーの一角には地主会によって建てられた楚辺通信所の返還を記念した石碑も建っている。