【論点整理】ひろゆき氏の辺野古ツイートにいいねを付けた28万人の方へ
- 2022/10/9
- 社会
今月3日・4日、インターネット掲示板2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)創設者で実業家のひろゆき氏が、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前を訪れた。その際、「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」と笑顔の写真をTwitterにアップしたことから、玉城デニー沖縄県知事がコメントを出すまでの一大論争となっている。
そもそもの出発点となった投稿、辺野古ゲート前での「座り込み運動」の現状などから論点を整理してみる。
「座り込み抗議3011日」の言葉のチョイスは適切か?
複数の論点を整理するため、まずは「看板の言葉のチョイス」について触れてみよう。(私はこのテーマ自体を「屁理屈」であると考えているが、この部分を過度に気にしている人も多いようなのであえて最初に指摘する)
現在立て看板には「新基地断念まで座り込み抗議 不屈◯◯◯◯日」とだけ書かれており、「連続日数」なのか「直接座り込んだ日数」なのか判断できない。これが実際に意味するのは「座り込み運動が開始してからの日数」である。
解釈に幅が出るため、ひろゆき氏は「連続日数」と勘違いしたのだろう。「誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」と煽るような笑顔で画像を投稿した。
「看板には連続ってどこにも書いていないですよね。どうして0日にリセットされるんですか?」と、もう一人ひろゆき氏がいたらツッコミを受けそうな所だが、そうした自身の勘違いを責められたくないためか、ここからひろゆき氏は「座り込みの辞書的な意味とは」と、論点を少し変えてくることになる。
正直、立て看板の文字だけを読むと、前述したように複数の解釈が可能になる。そのため「座り込み抗議『開始から』◯◯◯◯日」とした方がより正確だろう。
ただ、この「立て看板の日数論争」は本質から外れた、それ以上でもそれ以下でもない話である。
「開始から」の文字があればベストだったかもしれないが、無かったことで「28万いいね」が付くほどツッコミどころのある看板の文言だったのだろうかと疑問である。
「座り込み運動」を一般的な「座り込み」と呼ぶべきなのだろうか
「立て看板の日数論争」はその後、「座り込みの意味論争」へと変化していく。
辺野古の座り込み論争が、辞書の定義上の「座り込み」と一般的に認識されている座り込みと大きく乖離しているのではないかとの議論だ。
その論争となっている辺野古ゲート前がどのようになっているのかを確かめるべく、筆者も7日に仕事の合間を縫って現地を訪ねた。
改めて整理しよう。辺野古ゲート前での座り込みの抗議活動は2014年7月からスタートしている。
ここで何が行われているのか。
それは、辺野古基地建設の埋め立て土砂を運ぶダンプカーを止めるための活動だ。「座り込んで、何が行われているか知ってもらう」という目的よりも、「土砂投入を止める」という意味合いが強い。そのため当初は24時間体制で座り込んで止めていたとのことだが、ダンプカーが来るタイミングがパターン化した現在は、それに合わせて平日1日3回の座り込みを行なっているとのこと。
7日夜に放送されたアベマプライムの中でひろゆき氏は、「(座り込み抗議を見て)本気でトラック止める気もないし、機動隊の人たちもものすごく優しく丁寧だ」と述べた。
報道やネットなどから受ける「過激」な印象とは違い、現在の座り込み抗議活動はかなり「穏便」だ。実際、7日に座り込み抗議を見た筆者も、頭のイメージとの目の前のギャップに驚くと共に少しだけ拍子抜けしたのが初見での感想だ。
現地を詳しく取材する記者から話を聞くと「座り込んでいる市民・機動隊のどちらかが一線を超えて衝突になれば、怪我人が出たり、逮捕者が出たりハレーションが大きくなる。そのため、双方が『阿吽の呼吸』のように動いている」と事情を知ることができた。
それを体現したのが、こうしたアクションだろう。
座り込みをしばらく続けると、機動隊が警告を出し排除へと移行する。その際、座り込みから「その場をぐるぐる歩き回る」という手法へと移行する。この行為もずっと続けるといずれはまた機動隊に排除されることとなるため、ある程度のところでやめる。
こうした運動の実態を知って「ぬるいから座り込みとは呼ぶな」「座り込みのカジュアル化」「本気じゃない」と捉えるのか、「平和的」「知恵が詰まっている」と感じるかは受け手の感性によるだろう。(衝突が激しい時代があり、抗議活動が長期化していることを認識しているため、私は軽々しく「ぬるい」という言葉は口が裂けても言えないが…)
ひろゆき氏に賛同する人たちの中には、「立て看板の『座り込み』は誤解を生むから『抗議活動』に変えた方がいい」と主張する人もいる。
仮に、立て看板の文字を「抗議行動」に変えたとしても、辺野古のゲート前はおそらく一般的にイメージする「抗議運動」とも違う。長期化する運動の中で、座り込み市民・機動隊双方が「さらなる長期戦」を覚悟し、独特の形に変化し続けているからだ。
結局、立て看板をどのような文言に修正しようが、批判する人は批判するだろう。
そうした意味で、「立て看板の文字の是非」を論じることは「やっぱり不毛な屁理屈合戦である」と辺野古から帰る車の中で考えこむのであった。
沖縄への侮辱
ひろゆき氏は軽い気持ちで「ツッコミ」を入れたのだろうが、「0日にした方がよくない?」の言葉は、これまでの座り込み運動を「無駄である」と受け取ることができる言葉である。そのため、ひろゆき氏の言葉に怒りを覚えるウチナーンチュも多い。
特にネット上の政治言論空間には、自身と異なるイデオロギーの集団を馬鹿にし、嘲笑し、揚げ足をとる文化がある。沖縄も米軍基地問題をめぐって左右のイデオロギーの代理論争の舞台となることが多い。
しかし、である。
戦前・戦中・戦後、沖縄は「特異」な歴史を歩まされ、多くの血と汗と涙が流れた。米軍基地の移設を巡っては、補償などをめぐり地域が分断させられることもある。
様々な葛藤の中、やむを得ず容認となる方、身内が米軍人に殺されて反対運動を続けている人など色々な「想い」が詰まっている。
そうした空気感があるからだろう。沖縄で初対面の人と「基地問題の是非」の話はまずしない。それだけの重みと、異なるスタンスの人へのリスペクトが必要となるからだ。
今回のひろゆき氏からそうした真摯な想いは一切感じられない。
「それが、ひろゆき」ではあるのだが、ひろゆき氏に便乗し、いいねを付けた28万人以上の方の中から1人でも、沖縄の「押し付けられてきた」歴史を知る人が増えてほしいと思う。増えることを願う。増えることを信じている。
最後に、筆者の笑顔で締めたいと思う。