「読谷」と「恩納」 隣り合う村の地名をたどって浮かび上がる琉球逸話

 

恩納村「歴史の道」は読谷山の古道

 琉球王朝時代から明治期にかけて本島の南北をつなぐ主要道として使われていた「国頭方西海道」の一部が、恩納村仲泊から真栄田にかけて残っている。現在その古道は「歴史の道」として国の指定史跡に登録されており、王朝時代からの変わらぬ姿に当時の様子を思い描きながら歩くことができる。

 まず仲泊のおんなの駅近くには仲泊貝塚跡があり、そこから山へ登っていく小道に古い石畳が敷かれている。頂上まで登り切ると目の前にはパノラマの海が広がり、その場所がイユミーバンタ(魚の見える丘)と呼ばれていた所以に頷く。

 さらに起伏ある道を進むと、小川の上に架かる立派な石橋「山田谷川(ヤーガー)の石矼」が見え、そこを越えると山田グスクの城壁跡が現れる。

王朝時代を思わせる佇まいの「石矼」

 護佐丸はこの地から尚巴志軍の北山征伐に従軍し、その後北山監守を任され、座喜味城主、中城城主と大出世を果たす。しかしながら、悲運にもその最後は阿麻和利の乱に巻き込まれ逆臣の汚名を被って命尽きるのだ。

 上述したように、山田の山中には護佐丸の父祖が祀られている墓があり、1700年代に護佐丸の子孫によって建てられた石碑もある。護佐丸がこの地に根を張っていたことを立証する重要な史跡だ。

護佐丸がこの地に生まれ育ったことを示す史跡

 一旦山を下り国道58号線を横切って農道のような通りを進むと、今度は多幸山に入る。山道というほどでもない緩やかな小道を登り切って通りに出ると目の前に突如巨大な岩が現れる。

 昔の多幸山一帯は人気が無く木々が鬱蒼とし、昼間でも薄暗く方西海道の最難所と言われていたという。特にこの巨大岩上にはフェーレー(追い剥ぎ)が潜んでいて、道中を行く人から金品を奪い取るため「フェーレー岩」と呼ばれ恐れられていた。

人々を襲う追い剥ぎたちが潜んでいたとされる「フェーレー岩」

 その多幸山に観光施設「琉球村」をオープンさせたのが多幸山株式会社である。歴史の道は次の真栄田一里塚で終着となるのだが、当時の海道はそこから読谷山喜納の番所へと続いていた。

 今回紹介した「歴史の道」は今でこそ恩納村の観光名所となっているが、かつては読谷山の領土だった村々を通った古道なのである。隣り合う読谷と恩納には王朝時代からこのような深い関わりがあり、今なお謎めいた数多くの歴史ロマンが潜んでいる。

 ぜひ歴史の道を歩き、両村の間に隠れた謎を紐解いてみてはいかがだろうか。

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