「読谷」と「恩納」 隣り合う村の地名をたどって浮かび上がる琉球逸話

 
喜納番所に立つ「読谷山村道路元標」

 沖縄県中部に位置し、日本一人口の多い村として名を馳せる「読谷村」。世界遺産の1つである座喜味城跡、そしてその築城主である護佐丸の人気が高いことでも知られる。そんな読谷村だが、戦前までの村名は「読谷山(ゆんたんざ)村」だった。
 琉球王朝時は読谷山間切であり、廃藩置県後に読谷山村、そして戦後になって「山」を抜き「読谷村」となった。読谷山間切の番所だった喜納番所跡には、「読谷山」の名が残る貴重な道路元標が建っている。

 読谷の移り変わり、そして読谷とそのお隣恩納の間に興味深い歴史があるので紹介しよう。

護佐丸が恩納に居城していた理由

 かつての読谷山は、現在の読谷よりも広大な領土を有していた。1673年に読谷山間切から谷茶村、冨着村、仲泊村、久良波村、読谷山村、真栄田村、塩屋村、与久田村の8村が、そして金武間切から名嘉真村、安冨祖村、瀬良垣村、恩納村の4村が分離され新しく誕生したのが「恩納間切」である。

 今では恩納村のイメージしかない谷茶や冨着、仲泊や真栄田などはかつて読谷山の一部だったのだ。その一方、読谷山間切の読谷山村まで分離し恩納間切に組み込まれたのだが、現在恩納村には読谷山という地名は見当たらない。

 実は現恩納村の「山田」が元の読谷山村であり、恩納間切が創設された後に読谷山から山田に改称されていたのだ。今でも古老の中には山田を「古読谷山」と呼ぶ方がいるという。

 1673年といえば護佐丸が活躍した時代から200年ほど後になる。ということは、護佐丸は今や通説となっている「恩納の山田で生まれ育った」のではなく、同じ場所ではあるものの「読谷山間切の読谷山」で生まれ育ち力を付けたのだ

 護佐丸の父祖の墓がなぜ現恩納村の山中にあるのか、読谷山間切の按司として名高い護佐丸がなぜ恩納の山田グスク(かつての読谷山グスク)に居城していたのかも合点がいく。おそらく山田グスクと名付けられたのは後年になってからであり、琉球王朝時代は読谷山グスク、または古読谷山グスクと呼ばれていたのだろう。

 もしかすると護佐丸が後に山田(古読谷山)から座喜味に移ったのは、尚巴志からの拝命(牽制という説もある)ではなく同間切にこだわる本人の意向が強く働いていたのかもしれない。読谷山の護佐丸が移動したことで、新しく入植した地が新たに読谷山間切と名付けられたのかも知れない。

築城の名手護佐丸が手がけた「座喜味城跡」

 また、座喜味グスク近くの都屋や長浜といった良港を手に入れ徐々に力を付ける護佐丸に対し、時の国王「尚忠」は危機感を募らせ護佐丸を座喜味から中城グスクへ移したのかもしれない。

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