県民は何を望んだのか 公文書でたどる復帰 「日本復帰と沖縄」展

 

「複雑な思いが渦巻いた」復帰

 続く「アメリカ世」のセクションでは、沖縄戦後の戦災孤児や未亡人についての調査資料『全琉球未亡人・母子家庭調査資料』『戦災孤児の就籍について』といった文書が目を引く。兵隊として戦地に赴いた人や現地で戦って命を落とした人々の背後にいた、遺族たちの存在が浮かび上がる。「現在にも影を落とす、残された人たちの辛い状況まで想像を巡らせることも大切だと思います」と麻生さん。

 アメリカ統治下では、民主主義を重んじる国の方針として女性も参政権を与えられていたが、それはあくまで「一面的なものでした」と指摘する。

民主的に見える部分もありましたが、当時の米軍が最優先していたのは『基地の安定的な運用』でした。人権や人名をないがしろにする状況に対する不平不満が積み重なっていた。こうした事情も復帰を求める思いや動きが高まる1つの要因だったと思います

 そして復帰を迎える「1972年前後」のコーナー。71年に屋良朝苗主席が持って上京した『復帰措置に関する建議書』には、地方自治権や基本的人権の確立、そして平和の理念を貫くことなど、当時の県民の思いが詰まっている。が、この建議書が政府に届く前に返還協定は強行採決された。

 麻生さんは「待ちわびた復帰は要望通りにいかず、『基地の無い平和な沖縄を』という願いも裏切られてしまう結果となりました」と説明する。この事実を受けて、当時は「もっと時間をかけてもいいから、基地の無い沖縄を」といった声や、要望が通らないなら復帰する必要はないという「反復帰論」も出た。

 さらに、基地を無くしたい一方で、政治的・経済的に“依存”しているという事実にも向き合わなければならないということもあり、こうした事情は今現在の沖縄が直面している数々の課題とも文字通り“地続き”だ

「当時は単に『お祝い』ではなくて、どうしていこう、どうしていくべきか、復帰は良いものだ、いや反対だ、といったかなり複雑な思いが渦巻いているという印象ですね」(麻生さん)

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