沖縄最長の河川「比謝川」をたどれば琉球・沖縄史が見えてくる

 

戦の起点になった河川地形

 読谷村比謝矼には戦前まで天然の良港「比謝港」があり、島の南北を結ぶ海路の要所でもあった。明治期には近くに嘉手納製糖工場が建てられ、県立農林高校や県立二中も移転してくるなど中部の中心地として賑わいを誇った。

 しかし人々を豊かにしてきた比謝川の河川地形は、いざ戦になると敵を容易に上陸させてしまうという脆さも持ち合わせていた。比謝川の河口が広く深いため大型の船でも河川を遡ることができ、さらに大きく蛇行しているので堆積地ができやすく、上陸および物資の陸揚げには最適の地形だったのだ。

 1609年に起こった薩摩軍の琉球侵攻では、琉球王府軍は那覇港に徹底した布陣を組んだものの比謝川河口が手薄となってしまい上陸を許した。また、太平洋戦争末期の沖縄戦では、比謝川河口が米軍の上陸地となり海岸は1000を超える軍艦で埋め尽くされたという。

米軍が上陸している様子 (沖縄県公文書館所蔵)

 日本軍が沖縄本島での持久作戦をとり比謝川河口付近での戦闘を見送ったため、米軍の一方的な艦砲射撃で読谷の地は木の1本も残らず焼き払われた。そして上陸したその日のうちに日本軍の北飛行場(読谷にあった飛行場)および中飛行場(現米軍嘉手納基地)が占領された。

 泊城公園内には米軍上陸の地碑が建っており、その当時の様子や写真が掲示されている。

歴史的なエピソードは無数にある

 他にも比謝川にはたくさんの歴史的エピソードがある。

 嘉手納側の河口にはイユミーバンタがあり、崖の上からの眺めは絶景だ。「イユ」とは沖縄の言葉で魚のことなので、魚の見えるバンタ(崖)という意味なのであろう。

 さらにその崖の中腹には、対岸の泊グスクに逃げ延びた今帰仁系の先祖の墓がある。隠れ生き延びながらも、目に見える対岸に先祖を葬った先祖愛を感じる。

 また、イユミーバンタから続く丘陵地「水釜地区」には、今でも多くの外人住宅が立ち並び異国感を感じられると同時に、この見晴らしの良さが米軍の住宅地に選ばれたのだと納得する。ちなみに水釜海岸付近の平地は近年埋め立てられた新しい住宅地だ。

 比謝川沿いにある嘉手納小学校および中学校の敷地隣には、王朝時代琉球に甘藷を持ち帰ったとされる北谷間切野國(現嘉手納町野国)出身の人物「野國總管」を祀る立派なお宮があり、地元の人々の野國總管愛を感じる。

 さらについ先日、比謝川の生態系や歴史を学びつつカヤック漕ぎなどの自然体験ができる「比謝川自然体験センター」が水釜の川沿いにオープンした。

比謝川について様々な角度から学べる「比謝川自然体験センター」

 先史時代からグスク時代、王朝時代、さらに沖縄戦から現在に至るまで人々と深く関わりあって来た比謝川。ぜひ実際に足を運んで、川の流れを目の前にして時の流れを感じ取ってもらえたらと思う。

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