沖縄定番の伝統菓子土産「ちんすこう」に秘められた歴史がすごい
- 2022/5/13
- 食・観光
沖縄の市場やスーパーマーケットでは、昔から人々に親しまれている沖縄伝統菓子を今でも数多く見かける。例えば、ちんすこう、くんぺん、タンナファークルー、サーターアンダギーなどだ。
これらのお菓子が庶民に食されるようになるのは明治期以降だが、琉球王朝時代にはすでに宮廷菓子が城内で日常的に作られており、王家や士族の嗜好品として、また冊封使や薩摩藩役人の接待に振舞われていたという。
宮廷料理人の転職
王朝時代、首里王府内には「包丁人」という王府直属の料理人たちがいた。宮廷料理はもちろん、高級食材を使った琉球菓子も包丁人にしか作ることは許されておらず、庶民には全く無縁の代物だった。
しかし1879年の琉球処分による琉球王国解体に伴い、王府お抱えの料理人は不要となり包丁人は仕事の場を求めて城を下りることになった。
また、日本の一部となった沖縄には本土からの菓子職人が寄留したり新しい製造技術が導入されたりと、商業地那覇には次々と菓子専門店が開業し庶民にも菓子文化が広まっていった。一時は160種以上もあったとされる伝統菓子も現在では10〜20種類を見るだけとなってしまったが、今でも王朝時代の包丁人の末裔が伝統を受け継ぎ菓子作りをしている菓子店がある。
ちんすこうは大衆菓子ならぬ高級菓子
今日の沖縄を代表する伝統菓子といえば、やはりちんすこうだろう。実はこのちんすこうにこそ、琉球菓子の歴史がふんだんに詰まっているのだ。
琉球王朝最後の包丁人と呼ばれた「新垣*親雲上淑規(あらかきぺーちんしゅくき)」は、清(現在の中国)と薩摩に両属する国家体制の中で両国の菓子製法をうまく織り交ぜ、様々な琉球独自の菓子を作り上げた。ちんすこうもその1つではないかと言われている。
*「親雲上(ペーチン)」とは琉球の階級名で士族の位の1つ。
その当時のちんすこうは、今のような細長い形ではなく丸みを帯びた菊の花の形をしていたようだ。漢字では「金楚糕」と書いた。新垣親雲上淑規を開祖として3代目の新垣淑康(しゅくこう)が1908年に「新垣菓子店」を開業し、後にちんすこうを沖縄の代表菓子へと押し上げる画期的な改良を施していく。