沖縄インディーズブームを語るトークライブ「90年代後半~2000年代沖縄音楽シーンの証言」イベントレポ 那覇市Output

 

當山「とにかく若い人たちが外に出ていて、服屋にはライブのフライヤーがたくさんあった。ファッションを求めて店に行って、そのまま店員さんからイベントの情報を教えてもらうっていう流れがありました」

東風平「フライヤーでライブの集客をしていると聞いて、メディアの無力さとバンドマン自ら動いている力強さを感じていました」

 文字通り「ストリートカルチャー」が情報の動きのど真ん中にいた時代だった。

センセーショナルな存在だったモンゴル800

 そして1999年、後に沖縄インディーズバンドシーンの代名詞的存在とも言える『モンゴル800』のファーストアルバム『GO ON AS YOU ARE』がリリースされし、センセーションを巻き起こす。同じバンドシーンにいた当事者たちはどう感じていたのか。

─モンパチの存在はやはり大きいと思うんですが、実際どうでした?

下條「彼らが高校生の時に(全国的に人気を博した)スネイルランプのライブに前座で出てたんですよね。そしたら会場のヒューマンステージの山田さんが、現場にいた僕に楽屋で『下條、前座、高校生。やばいよ』って」

山田義和氏(以下、山田)「とにかく楽しいバンドだった。かっこよく見せてたというよりは、楽しさを伝えていたバンドでした。周りの高校生バンドも対バン(共演)したがっていましたね」

東風平「1stアルバムの『GO ON AS YOU ARE』は、実は当初3000枚しかプレスしていなかったんですよ。それで年末年始に欠品が出て2週間以上手に入らないという現象が起きて、飢餓状態になって更に売れたということもありました」

當山「これを横で見て、俺たちも行ける!って思ってた。でも2ndの『MESSAGE』の売れ方を見てこりゃあダメだって。あれはもう嫉妬の固まりでした」

下條「向こうは『あなたに』を歌ってるのに、自分たち地獄車の曲名は『ウンコ哲学』ですよ。『そりゃあ向こうが売れるよ!』って反省しました」

東風平「でも地獄車もすごかったよ。1999年11月、地獄車は県内のレコード店でSPEEDを抜いて軒並み売上が1位。これは恐ろしい事態ですよ」

下條「1年足らずの間にライブの集客がどんどん増えていくのは、不思議な感覚でした」

山田「彼らも、自主的に県外のバンド呼んでライブやってたけど、沖縄のバンドは負けていないと思った。当時は言わなかったけど、凄いな、かっこいいなって毎回思ってたよ」

東風平「やっぱり初期から見てきた僕が思うのは、最初は『地獄車』や『Anger From Ball』『SAKADACHI』のようなハードコア系があって、その流れの後にモンパチが出て来たって感じですね」

カク「続くように出て来たHYも最初からレベル高かったですからね。音源聴いたらこれは売れるだろうとすぐに感じました」

當山「沖縄のミュージシャンだけでフェスが開催できると思っていました」

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