「奇跡の1マイル」の軌跡 国際通りと戦後復興

 
国際通りの由来となったアーニーパイル國際劇場 (1966年撮影、沖縄県公文書館所蔵)

 話は進まず平行線を辿るが、ここで高良の熱意に賛同しサポートを図る一人の県職員が現れる。

 川平朝申だ。

 川平朝申は、タレントのジョン・カビラと川平慈英の父「川平朝清」の実兄であり、2人は共に戦後の沖縄にラジオ放送局を設立した放送業界の第一人者だ。川平家は、王国時代から芸能職に就く王朝士族の末裔であり、現代においても芸能界の第一線で活躍するファミリーなのだ。朝申も高良同様に、県民に今必要なのは娯楽であり、生きる希望と喜びを与えるべきだと考えていた。あの手この手で巧みに交渉し、遂に牧志に劇場を建てることが許された。

「アーニー・パイル 國際劇場」の誕生である。

由来は劇場名だった

 アーニー・パイルとは、米軍の従軍記者の名前である。第二次大戦中、彼の書く戦況ニュースは全米で大人気を博し、大センセーショナルを巻き起こしていたという。アーニー・パイルは沖縄戦にも従軍するが、伊江島で日本軍の銃弾に倒れる。高良には、米軍の間で絶大な人気を誇っていたアーニー・パイルの名を冠することで、米軍からの支持も得ようという目論見もあったという。

 開場直後、連日超満員の大盛況を収め、人々も活気付き、次第に牧志エリアおよび新県道沿いにも店が建ち始め、那覇の新しい中心地が形成されていった。この國際劇場の名にちなみ、新県道が後に「国際通り」と呼ばれるようになるのだ。國際劇場はその後国際琉映館となり、本土復帰を経て国際ショッピングセンターとなる。現在はご存知「てんぶす館」である。

 他にも高良が手掛けた事業には驚くばかりだ。国際劇場に隣接する形で平和館をオープンさせ、これが平和通りの由来となる。

平和通り入り口には平和館があった

 松尾に設立した第一相互銀行は一銀通りの由来だ。天久にあった東急ホテルは、もともと高良が仕掛けたホテル琉球が前身。廃墟ホテルとして知られていた、中城城跡に隣接する中城高原ホテルも高良の手がけた事業だった。高良の存在なくして今の国際通り、そして那覇の奇跡的な復活は無かったのかもしれない。

このような歴史も知った上で、今一度国際通りを眺め歩いてほしいと思う。

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