かつて沖縄一賑わっていた場所は? 那覇の街の今昔
- 2021/7/21
- 社会
琉球から沖縄となった頃、沖縄の県庁も那覇の役所もこの一帯に置かれ、旧那覇エリアは港町から行政の町へと移り変わった。人が集まると市場が生まれ、劇場も百貨店もできた。一時は通堂町から首里まで路面電車も走っていたほどだ。相当な賑わいぶりが目に浮かぶ。
しかし、現在までその当時の様子を残すのは、那覇港の出島要塞であった三重グスク跡、貴重な交易品を保管していた離れ小島、御物グスク跡ぐらいである。
戦後復興に伴う移り変わり
それほど栄えた旧那覇地区の面影は、なぜ残ってないのか。それはもちろん戦争による影響だ。
米軍の攻撃により町全てが焼き払われた上、旧那覇地区は米軍の占領下となり民間人の立ち入りが禁ぜられる。
その後、奇跡的に戦渦を逃れた那覇の壺屋が解放されると、陶工を中心とした先遣隊が送り込まれ、生活に必要な食器を製造することから戦後復興が始まった。次第に壺屋、隣村の牧志にも人が集まり闇市が生まれ、役所も移り人々の求める娯楽劇場がいくつも建った。
すると、それまで物寂しい裏通りでしかなかった一本の道にも劇的な変化が生まれる。“奇跡の1マイル”と呼ばれる「国際通り」の誕生だ。ただ、この頃にはまだこれからどこが沖縄の中心地となっていくのかどうかは、分かっていなかった。
県都が那覇ではなかったかも?
米軍は、戦後まず具志川の栄野比、その後玉城村の親慶原を経て、旧那覇の上山国民学校校舎跡(現上山中学校)に米国民政府を設置する。
同じくして沖縄民政府も、石川の東恩納から佐敷の新里を経て、上山国民学校跡、そして天妃小学校跡に設置された。これらの大掛かりな組織移動の後に、米軍指示のもと那覇を沖縄の首都とすることが正式に決定付けられる。
その後、現在県庁のある泉崎に両政府の入居する琉球政府ビルが新築され、本土復帰を経て沖縄県庁となるのだ。ということは、もしも戦争が無ければ、那覇の中心地、沖縄の中心地はもしかしたら旧那覇地区、現在の東町や西町あたりのままだったのかもしれない。また戦後の状況下によっては、具志川や石川、玉城や佐敷に県都が置かれていた可能性も否定は出来ないのだ。
このように、わずか80年ほど前までは今とは違う場所が沖縄経済の中心部だった。旧那覇地区の移り変わりに思いを馳せれば、“琉球ロマン”を感じられないだろうか。かつての姿を想像しながら、ぜひ足を運んでみてほしい。