かつて沖縄一賑わっていた場所は? 那覇の街の今昔

 
1945年の全てを焼き払われた旧那覇エリア。左中心部に見えるコの字型の建物は上山国民学校 (沖縄県公文書館所蔵)

 沖縄の県都那覇市。その中で最も賑わいのある場所はどこかと問われると大半は「国際通り」周辺もしくは「新都心」と答えるだろう。しかし、戦前の那覇は大きく異なっており、現在の東町・西町辺り、元は離れ島だった“旧那覇エリア”が最大の賑わいを誇り、街の中心部だった。

 では、なぜ中心地の移動があったのか、なぜ東町・西町が元那覇の中心部だったのか。今回はその理由を紐解いていこう。

島国琉球の玄関口

 かつての琉球王国は海に囲まれた島国であり、外部との交易、交流は全て海上を経由する必要があった。

 数ある中で最も重要だった港は、首里から近い那覇港だ。その那覇港に隣接する港町が、先に示した東村や西村(現東町・西町)だった。交易の玄関口で人や物が行き交う場所だったため、琉球一賑わう町となるのは当然だった。

 また、東村には中国からの冊封使が滞在する宿舎「天使館」があり、冊封の度に総勢400名ほどの使節団が半年間ほど滞在していた。廃藩置県後には天使館跡に那覇区役所(市役所)が置かれ、第二次大戦の10.10空襲で破壊されるまで行政の中心地だった。現在その跡地は那覇医師会館となっている。

冊封使を受け入れ、那覇区役所となった場所には現在那覇医師会館が建つ

 さらに、西村には琉球侵攻後に薩摩藩の出先機関「在番奉行所」が置かれ、琉球を支配管理するための役人たちが常駐していた。廃藩置県後はそこに県庁が置かれ、現在は総合医療商社ビルが建っている。
 ところでこの商社ビル前の道路だが、同エリアの道と比べるとひときわ広く感じる。実は、那覇の一大イベント「那覇大綱曳」の原型である「那覇四町綱」は、かつて在番奉行所前のこの広い道路で行われていたのだ。道幅は当時から変わっていないという。

かつて在番奉行所があった付近の道路。現代の感覚でも道幅はかなり広い
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