【戦後76年】戦跡を巡る③ 戦後から時が止まる南風原山中の壕群

 
平和ガイドの付き添いを原則とした上で20号壕内の見学が可能(コロナ禍における緊急事態宣言中は見学休止)

 米軍の侵攻が進むと、沖縄陸軍病院の医療機能も南部へ撤退することを余儀無くされる。自力で移動出来ない重症者には青酸カリによる自決を強要するなど、学徒を含む多くの負傷者がこの壕内にて悲惨な最後を迎えた。病院壕跡は、戦後長らく手付かずのままの状態だったが、1990年、沖縄戦の悲惨な記憶を伝え継ごうと、南風原町によって文化財に指定された。

 第二次世界大戦の戦争遺跡を文化財に指定したのは日本全国で初のことだった。黄金森公園内の南風原文化センターでは、病院壕の様子を再現したジオラマを見学できる。

命をかけて駆け上がった道

 戦中、病院に収容された負傷者への炊き出しは、井戸のある山の麓で行われていた。学徒たちは炊き上がった飯を樽につめ、二人一組で肩に担ぎ、丘の上まで幾度も駆け上がったという。しかしこの作業は米軍機の標的となりやすく、銃弾を受けて命を失った学徒も多かったと言われる。

 銃撃をくぐり抜け食料を運び、多くの命をつないだこの道は「飯上げの道」として残されており、現在も登り下りすることができる。平和学習として、樽を担いで登る体験プログラムも提供されている。

命懸けで食料を運搬した飯上げの道。どれだけの恐怖に耐えながら駆け上がったのだろうか

 自分で足を踏みしめ、彼女達の過酷さを肌で感じることも戦争を学ぶ上で大事なことだと思う。戦跡シリーズは今回で最後となるが、戦後76年が経とうとも、我々の身の回りには多くの戦争の爪痕が残る。

 我々にできること。戦争を知識として知るだけでなく、聞いて学ぶだけでもなく、残された戦跡を訪れ、自分の目で見て肌で感じること。平和であることの尊さをより多くの人へ伝え、拡散させていくこと。それが我々世代のウチナーンチュの役目であり、世界平和への近道となるのかもしれない。

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