【戦後76年 慰霊の日】戦跡を巡る② 「野嵩」 収容所設置で多くの人が行き交った過密ポイント

 
民間人収容所の生活の様子(撮影時期・撮影地不明、沖縄県公文書館所蔵)

 野嵩は市役所のある宜野湾行政の中心地で、終戦後にも役所が置かれていた(役所は一時普天間に移ったが、現在野嵩に戻っている)。しかし市外の人たちにはあまり広く知られていない場所ではないだろうか。お隣普天間の方が圧倒的に認知度は高く、琉球王朝時代から戦前戦後、現代に至るまで宜野湾の代名詞と言えるだろう。

 1962年に村から市へ昇格する際も、市名を普天間市にするか宜野湾市にするかで争ったほどだ。では、なぜ野嵩は宜野湾市にとって重要な場所となったのか。そこには戦争と、戦後野嵩に作られた収容所の存在が大きく関わっていた。

難民収容の要となった地区

 太平洋戦争末期の沖縄戦、米軍は読谷上陸後に首里を目指して南下した。嘉数高地を含む宜野湾一帯でも激しい地上戦が繰り広げられ、村の人口約30%が犠牲となった。しかし、野嵩地区は激しい戦禍を逃れており、家屋などの建物が無人のままある程度残っていた。
 そこで米軍たちは、捕らえた住民の一部を野嵩地区の空き民家へ送り収容させた。多いところでは一つ屋根の下に10家族もの人たちが共に過ごさざるを得ない状況だったという。

 しかしその後も各地から送られてくる難民の数がどんどん増え、米軍は野嵩一帯に大型難民収容所を設営することになる。また、難民が北部の収容所などへ送られる際にも、野嵩が南北の中継地点となり、人々の往来が過密な重要ポイントとなっていった。

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