【戦後76年 慰霊の日】戦跡を巡る①「読谷」 9割が米軍用地だった場所に残る爪痕
- 2021/6/21
- 社会
今年も沖縄にとって特別な1日、慰霊の日が近づいてきた。
戦後76年、戦争体験者の数は年を追うごとに少なくなり、凄惨な過去が薄れていく気がしてならない。我々の世代が後世に伝えていけることは何であろうか。体験談を聞くこと、知識として学ぶことも大事だが、戦後残された様々な戦跡へ足を運び、目で見て肌で感じることで伝わるリアルもあると思う。そこで、私自身がこれまでに強烈な印象を受けた戦跡をいくつか紹介していこう。
南北に走る滑走路と日本軍機用掩体壕
太平洋戦争末期の沖縄戦、米軍が沖縄本島に初めて上陸した地は読谷の比謝川河口エリアだ。河口沿いに位置する泊城公園の丘上には、上陸時の様子を写真と共に伝える説明版がある。
沖縄戦の前、読谷村中央部には日本陸軍によって建設された「北飛行場」があったが、米軍上陸後すぐに制圧され、後に米軍読谷補助飛行場として運用されることになる。その飛行場跡が現在の読谷軍用跡地開発の中心部であり、広大な平地に村役場や運動公園などが広がっているのである。
開発地を南北一直線に伸びる幅広い道路は、滑走路の名残だ。陸上競技場近くにも、興味深い史跡が人知れずひっそりと残っている。高さ5m、幅20mほどの「掩体壕(えんたいごう)」と呼ばれる日本軍の戦闘機格納庫だ。現在は一基だけが残っている。日本軍によって建てられ(国場組が担当したようだ)、占領下では米軍の壕としても利用されていた。状態が決して良いとは言えないので、今のうちに見ておくこと勧めたい。
また、むら咲むらから残波岬にかけてのサトウキビ畑が広がる沿岸には、米軍機B29の離発着を可能にするための「ボーローポイント」という飛行場も新たに建設され、日本本土への侵攻基地となった。太平洋戦争終戦後は砲撃訓練場として使われるようになり、核弾頭搭載可能なメースBミサイルが配置された歴史もある。座喜味城跡も一時期米軍基地として使われていた。
戦後、土地の90%以上が奪われた読谷村は、本土復帰を機に約60%が返還されたが、残りの30%以上は未だに米軍施設が占めている。