琉球の偉人は苦しい時代をどう乗り越えた? 蔡温と羽地朝秀に学ぶ

 
ひんぷんガジュマル

 名護市街の玄関口には、樹齢300年とも言われる巨木「ひんぷんガジュマル」がそびえたつ。国の天然記念物として指定を受ける名護市のシンボルだ。
 このガジュマルがなぜ「ひんぷん(沖縄の屋敷前に建つ目隠し)」と呼ばれているのかご存知だろうか。そこには、かつて琉球の国都を首里から名護へ遷そうと企てられた事件が関わっていた。

 今回はひんぷんガジュマルと、琉球史上最強と名高い政治家・蔡温の数々の偉業をお伝えしよう。

革命児・羽地朝秀の切り込み

 まずは蔡温が最強の政治家となる伏線を敷いた革命児・羽地朝秀について伝えておきたい。

 1609年、薩摩の侵攻を受け琉球は2大国の属国となるかつてない動乱期に陥った。国中の士気は下がり、王府からの徴税に加え薩摩からの重税も課され一層苦しめられる民。王府内では親薩派と親中派の対立が起こり、士族や商人の間では賄賂が横行するなど国自体が不安定になっていた。

 そんな時代に登場したのが行政改革者・羽地朝秀だ。革新的な思想家だった彼は琉球より遥かに進んでいた日本の制度や経済政策、文化や芸能などのいい面を積極的に取り入れようと働きかけ、薩摩との信頼関係を深くしていった。 

 古いしきたりを取りやめ、王族士族においても贅沢を禁じるなどといった大胆な改革にも切り込んだ。またそれまでタブーであった祭祀儀礼への干渉、出費削減にも着手し、祟りにも恐れを為さず神女組織の解体まで試みたが旧慣支持勢力が大きかったため志半ばで力尽きた。

 その偉才ぶりによって摂政に就いた朝秀だったが、朝秀の妹は時の尚賢王の実弟・尚質に嫁いでおり、尚賢が崩御し尚質が即位した際に朝秀は国王の義兄となっているのだ。その立場上の強みも大きく働いていたのかもしれない。

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